『かあさんの歌』を作った窪田聡について興味深いことが書かれてあった。先の記事では高校卒業後に大学に合格したにも関わらず、家出をして消息を絶ったと書いたが、その辺りの事情はどうだったか気になり調べてみると詳細は以下のようである。窪田聡は本名を久保田俊夫といい、昭和10年、東京都墨田区京島で五人兄弟の四男として生まれる。家業は建具屋だった。
進学校で有名な開成高校に進むも太宰治に心酔し、デカダン(頽廃的)な生き方に憧れていた窪田は、授業をさぼって映画・たばこ・酒に耽溺する日々を送っていた。高校卒業後は早稲田大学に合格したが、親が準備してくれた入学金と授業料をもったまま家出をする。大学の進路をめぐって母との対立があったとはいえ、親子でなければ使い込みで逃走なら犯罪である。
こんにちなら入学金などは親が直接銀行に振り込むだろうから、こんなことは起こりえないが、振り込みでないにしろ子どもの大学の入学手続きは親がするのが一般的だ。金を渡して、「入学手続きに行ってこい」などは、親が忙しい子だくさん家庭なら当たり前だった。今は子どものこと、子どもができることすら親がやりたがる。それを過保護とも言わない時代である。
入学金と授業料を搾取の上で家出であるが、一人で生きて行こうとの18歳の自立心をみる。親の心を踏みにじる行為ではあるが、居たくない家なら飛び出すことも子どもの人生である。窪田は人生の長きにわたって母との葛藤があったとされている。家出の原因は母との進路対立以外にも、日々の諍いがあったろう。親と関係を断つ家出は決意みなぎる行為である。
家出についての表立った理由は、「文学で生きていくため」となっているが、大学に通いながら小説を書いたりが文学者になるべく一般的な手段である。おそらく窪田はマルクス主義やプロレタリアート思想の影響を受けたと考えられ、家出後は安下宿に隠れ住み、牛乳配達などの仕事をする極貧生活のなかで、「うたごえ運動」に参加した窪田は共産党にも入党した。
「うたごえ運動」とは、先の大戦後の日本における合唱団活動を中心とした、大衆的な社会運動・政治運動で、共産主義・社会民主主義を思想的な基盤とし、労働運動や学生運動と結びつきながら全国各地の職場、学園、居住地に合唱サークルを組織した。共産党員で、「うたごえ運動」の創始者である関鑑子は1948年、共産党の運動方針に従い新たに中央合唱団を創設する。
「うたごえ運動」の首都圏における中心的存在である中央合唱団に所属した窪田は、「赤旗まつり」をはじめとする日本共産党主催行事や、「日本のうたごえ祭典」に出演し、関連楽曲のレコード録音などを行ったがその後、「うたごえ運動」と決別し、1988年に岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)に移住する。同地でも、1995年から産業廃棄物処分場の反対運動などを行っている。
『かあさんの歌』は都会生まれの窪田が疎開先だった父の郷里、長野県信州新町での農村体験をもとに書かれたもので、窪田の疎開は9歳~10歳の一年間だった。家出後、音信不通となった窪田に母から小包が届くようになったが、共産党入党もあってか、母との断絶は続いていた。1989年、疎開先の信州新町に疎開当時の有志によって『かあさんの歌』歌碑が作られた。
その除幕式に呼ばれた母のけさゑは、「俊夫、よかったね」とつぶやいたという。窪田はこの言葉を、「(54歳にして)初めて母が自分を認めてくれた言葉だった」といった。明治生まれの気丈な母は同年他界したが、上記の窪田の言葉を聞く限りにおいて、20歳当時の彼が母を慕う心情を歌ったとは考えにくく、『かあさんの歌』は疎開先の祖母のことを歌ったものといわれている。
歌や詩や小説が作者の想いから離れて独り歩きすることはままあることで、作り手の意図から離れたとはいえど、聴き手や読み手に水を差すような発言は控えるのが一般的。「おとうは土間で藁うち仕事」とある2番の歌詞には、自分の勝手な生き方を黙認してくれた父親への気持ちが込められているという。これらのことは窪田自身がいろいろなところで語ったり書いたりした。
父子関係に比べて子どもと自分との間に境界線がつくれない母親は、自身の不安や欲求などの感情を子どものそれと区別できない。つまり、子どもは自分とは別の認識をし、異なった感情を持つことが認められない。それが子どもを自分の延長線のように、あるいは補充物のようにみなす。だから母親というのは、子どもの一挙手一投足が気がかりとなり、いちいち干渉する。
子どもの心の中に遠慮なく侵入し、子どもを操縦しようとするが、これは自分の人生を子どもで埋めようという行為に過ぎず、子どもにとってみればたまったものではない。これが毒親の正体である。にも拘わらず、子どもに対する献身的な愛情と錯覚するが、その実態は母親自身の深くも空疎な感情であったり、自己尊重の欠如を埋めようとするものだったりする。
母子一体感にも健全なものと不健全なものがある。前者の場合、母親の献身に支えられた子ども中心のものであるが、後者の母親の場合、母親中心の一体感が手放せない。こういう母親に育てられ、不幸にも順応してしまった子どもは、母親の感情と自分の感情を混同し、区別がつかなくなり、自分自身を信頼できなくなる。他人に支配されるとはそういうことをいう。
母親からすれば自分の言いなりになる子どもはかわいいのだろうが、客観的に見た場合これは怖いことである。麻原に洗脳された信者と変わらない子どもを、母親は作ろうとしていることになる。麻原と同じように、信者(子ども)の幸福のためという理屈である。「麻原はとんでもないけど、私のいうことを聞く子は間違いなく幸福になる」というなら、何も言うことはない。
母親の強力な支配に閉じ込められた子は、思春期、青年期に入っても、母親なくしては生きていけないと感じるようになる。他人から見れば強度の依存、もしくはマザコンに映る。こんな夫に嫁いだ嫁はたまったものではない。親が子どもに対する溺愛とか過保護とかは、供与する側には分からない。ゆえに盲目的になるのを戒め、自らを疑い、自らに問いかけることだ。
西欧の夫婦は、大人の男女としての自分たちの関係を作り、その関係の中に子どもを入れない。だから、子どもの前でも憚ることなく男と女としての愛情を表現し、夜になればさっさと自分たちの寝室に引きこもり、子どもが泣いても夫婦の寝室に子どもを入れたりしない。文化が違うといえばそれまでだが、子どもにとっても、夫婦にとっても良いということは分かろう。