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Channel: 死ぬまで生きよう!
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母とは何か? ③

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  かあさんが夜なべをして手袋編んでくれた 木枯らし吹いちゃ冷たかろうて
  せっせと編んだだよ ふるさとの便りは届く 囲炉裏の匂いがした

窪田聡の詞・曲になる『かあさんの歌』は、1956年(昭和31年)窪田二十歳の時に発表されたもの。窪田は開成高校を卒業後、合格していた早稲田大学には一日も通学せず、文学を志して家出した。兄を通じて居所を知った母から届いた小包の思い出や、戦時中に疎開していた長野市の旧信州新町地区の情景を歌詞にしたものとされる。窪田は文学の他に音楽を愛する青年だった。

家出して行方が分からなかった息子の居場所を知った母が送ったものは何か?身の回り品類に手袋もあったかも知れない。1935年生まれの窪田は現在84歳。1988年10月から岡山県瀬戸内市(当時牛窓町)に移住し、産業廃棄物処分場に反対する運動などを行いながら、月に1度の歌声喫茶を主催していたが、現在は、「窪田聡・歌のある風景」として、年に5~6回開催している。


この曲をテレビで聴いた子どもが、「よなべって何?」と母親に聞いたという。夜なべをして手袋を編む情景は頭に浮かぶが、今は100円均一で買える。便利になった時代ではあるが、♪かあさんが百均で手袋買ってくれた…と歌っても情緒がない。現代社会で母さんのことを歌うと、どういう歌詞になるのだろうか?ふ頭に浮かぶはジョン・レノンの『mother』である。

  お母さん 僕はあなたのものだったけど
  あなたは僕のものではなかった
  僕はあなたを求めたけれど
  あなたは僕を求めなかった
  お母さん さようなら

  お父さん あなたは僕をすてたけれど
  僕はあなたをすてられなかった
  僕はあなたが必要だったけれど
  あなたは僕を必要としなかった
  お父さん さようなら

ジョンの父は失踪し、母は男と同棲してたために叔母に育てられたジョン。この曲は、ヨーコと出会いプライマルスクリーム療法(セラピー)を受けてたころのもの。心にわだかまるものがそのまま詞として出てくるものだろう。もう1曲は、フレディ・マーキュリー(ザ・クイーン)の絶叫になる、『ボヘミアン・ラプソディ』の出だしである。これもまたすごい詞ではある。

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  母さん、人を殺してきたよ
  そいつの頭に銃を突きつけて
  引き金を引いたら そいつ死んじゃった
  母さん、僕の人生は始まったばかりだってのに
  もうお終いなんだ、自分で自分の人生を投げ捨てちゃったんだよ
  母さん、ああ
  母さんを泣かそうと思ったわけじゃないんだよ
  明日のこの時間になっても僕が帰ってこなかったとしても
  そのまま、何も関係ないって感じで これまで通りに暮らしていって

「ボヘミアン」は流れ者と訳されるが、犯罪者が逃げ隠れしながら生きていくという意味よりも、頼る者のない状況にあって、むしろ自由気ままに成り行き任せに流浪する意味で使われている。「ラプソディ」とは狂詩曲という楽曲の一形式に過ぎない。先に記事にした弥谷鷹仁容疑者は、「母さん、妻を殺してきたよ」といったのだろう。彼はボヘミアンであるべきだった。

なぜ母親に言ったのか?妻を殺めて母親に言うのか?「なんでもママに言うのよ」と育てられたにせよ、36歳の息子である。結果、母は息子の犯罪に加担することになるが、男親には理解し難い母親の偏愛である。息子の犯罪に遭遇した三田佳子や高畑淳子ら母親の顔が頭を過る。犯罪を起こしてはないが曽野綾子の以下の発言も、象徴的な母親の言葉として刻まれている。

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「もし息子が罪を犯したとき、世間がなんといおうと、あたしは絶対息子がいいと言おうと思っている。子どもが困ったとき、支持できるのは母親だけ (中略) 母親が一番愚かしく、盲目的になってもいい…。」曽野のこの発言は、何度目にしても正気の沙汰とは思えないし、現に弥谷鷹仁容疑者の母親は、これと同じことをしたのではないのか?曽野はどう思っているのだろう。

「愚かで盲目的なバカでいい」。これが世の母親の多数派なのか?「息子に対して親というものは不法で理屈の通らぬもの」と、ここまでいう曽野の本気度は十分過ぎるくらいに感じられる。ユング派心理学には、「グレート・マザー」なる概念がある。「太母」と和訳されるが、全能でヌミノース(聖なるもの)な存在であり、保護する母と支配する母の両面を備えている。

世に流布するよき実母と悪しき継母の物語は、「グレート・マザー」の両面を具像したものであって、すべての継母が悪しき存在ということではない。「母子一体」という概念は完全一体ではないにしろ、どの程度のものか?「父子一体」などの言葉は聞いたこともないし、父子が一体であるなどあり得ない。父と娘は乖離し、息子は父を乗り越えるべく敵対関係にある。

確かに母子一体性的要素は、子どもに安定感を与えるが、同時に否定的側面も露わに表現されている。つまり、母は子どもに自分の生きられなかった影の部分を子どもに生きて欲しいと要求する。例えば勉強をしなかった(苦手だった)母が、教育ママになるようにである。そのために母は子どもに奉仕する反面、要求がましくなる。これが子どもに与える影響が大きい。

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子どもがあまりにも母の要求を感じ取った場合に、子どもは自らを生きているのか、母の一部を生きているのかわからくなり、自己を喪失する。母は母で自分自身を生きることを怠った結果、思春期時期に子どもが分離することを許さなくなる。こうした一体的要素を母子一体感というのは理解できるが、別の言い方をすれば互いの利害の一致する共依存と問題視される。

親子が利害関係で結ばれていいのだろうか?自分は他人とも親子とも、利害関係(利用し利用される関係を是とする)を望まない。それは長い間には必ずや負担になるからである。負担になりながらも形式化させて継続する無駄な人間関係はストレスとなる。贈り物を定期的に交わす関係がそれで、一切のそういうものを避けるように生きてきたし、物品の繋がりが心の繋がりではない。

「矛盾相即」という言葉がある。西田幾多郎は鈴木大拙から禅思想を学び、禅の古典である、「華厳経」の、「即非の論理」を教わった。「即非」の、「即」とは同一性のこと、「非」とは同一性にあらずということ。よって、「同一性と非同一性」が一緒になっているのが、「即非の論理」であり、後年の西田哲学は、「絶対矛盾的自己同一」の思想に至っている。

矛盾しているけど同一、つまり絶対矛盾かつ自己同一。矛盾と同一性が、「相即」する、それが、「矛盾的相即」。この論理からすれば母と子は一体であるが、同時に二者は二者である。女が母性を生きるとき、女性にとって男というものは、まったくの「見ず知らず」の存在である。これをギリシャ神話の『プシケーの物語』に即して考えると分かりやすい。

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日本の女性にとって、生涯夫は未知の人として終わってしまう可能性に満ちている。ある女性が40の半ばを過ぎて夫との離婚を決意した。その理由とは、30歳半ばまで夫婦生活とはこんなものだと疑問も感じなかったが、他の夫婦との交流が増えるにつけ夫の欠点が見え始めた。そうして夫への批判が高まるうちに、このままでは自分の人生は墓場と感じ、離婚を決意したという。

分かるようで分からない。分からないようで分かる気もする。男は自分の正体を女性に知られることなく、ひたすら妻には自分を信じてついて来いと願うところがある。妻は我が子を宿して育てる間は夫は未知の人であるのが楽というもの。男と女は別の生き物ゆえに永遠に分かり合えないというが、同性でも分かり合えない相手もいて、それが夫婦を切り裂くものでもなかろう。

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