「毒親」という言葉は昔はなかった。2008年以降、自己愛の強い母親とそれに苦しむ子どもの問題に関する書籍が増え、日本では2015年時点で毒親という言葉は一種のブームになって、ひどい親によって被害を受けたり、苦労体験を語った著書が乱立する時代になった。自分が子どもだった50年前に、「毒親」という語句がなかっただけで、毒親がいなかったわけではない。
今の子どもも昔の子どもも、子どもの質が変わったわけではないし、親の質がそれほど変わったわけでもない。「毒親」という言葉がない時代、「毒親」と見定めた子どもは賢明だったということか?人(親)を見る目があったということか?そんなことはどうだっていいこと。要は毒親に毒されないよう我が身を守ったということだ。同じことは今の子どもにもできるはず。
それができないままに親に毒され、支配され、傷ついた心を何とか元に戻したいからと本を漁り、著者はそういう人達の心を元に戻させたい。上記のタイトル以外にも、『不幸にする親』、『毒になる母』、『親に壊された心の治し方』、『子は親を救うために″心の病″になる』、『しんどい母から逃げる』、『母を棄ててもいいですか』などのタイトルが並んでいる。
『親を殺したくなったら読む本』という過激なタイトルもある。毒親から逃げられなかった子どもたちが手にするのだろうが、なぜ毒親と見定められなかったのか?親が自分の害になるかどうかくらいの判断くらいできそうなものだが、反抗する勇気がなかったのか、従っている方が楽だったのか、それぞれに事情はあっても、振り返れば主因は行動しなかった自分にある。
『毒になる親』とか、『毒親の正体』とか、指摘をされなくても分かりそうなものだが、指摘をされて毒親に反旗を返すならそれでもよかろう。とりあえず、うちの母親はどうやら毒親に合致すると、本を読んで気づき、毒を盛られないよう反抗すれば、将来的に心の病に罹患しない。反抗のエネルギーは大変だが、親といえども自分を害すなら、それはもう敵と見定めるしかない。
「他人に支配されない生き方をすべし」と返す返す述べているのは、それが自分を解放することになるからだ。現代は管理社会という蟻地獄の真っただ中にあり、社会とは家庭も含まれている。50年前に比べれば、親子関係を成立させている社会基盤自体変化している。それこそ小学生時分から受験戦争に足を踏み入れる家庭も目珍しくない。こんなことは昔はなかった。
子ども自身が早期から受験という社会システムに組み込まれ、システム人間化した時代になっている。それを良いことと操っているのが母親ということになる。父親の権威が落ち、親父の力が失せれば子どもは母親主導で育っていく。親が得ている知識ややり方よりも、塾や習い事などの金銭教育が主眼となり、親父はといえば、もっと稼いで来いと尻をひっぱたかれる現状。
母親と価値観の異なる父親など不要とばかり、「亭主元気で留守がいい」などと足蹴りにされ、家庭におけるシステム化は母親によって作り出されている。「自由とは何か?」と子どもに問い、「やりたいことをやること」と答えられる子どもがどれだけいるだろうか?自分のやりたいことが何かわからず、とりあえずは塾や学校でいい点数を取ることが親に喜ばれる。
子どもの日常がそのようにシステム化され、そこからあぶれる反抗がやりにくくなった。子どもといえども管理されれば当然ストレスは溜まる。それをいじめなどで発散するからいじめは減らない。なぜこういう世の中になったのか。受験戦争は、1978年の共通一次試験によって拍車がかかったとされ、受験第一主義というシステム化を生み、親はこぞって、「勉強は必要」と子を毒す。
だから毒親という。学問こそが人生を勝利に導くとされ、勉強さえできれば報われる時代はあったが今は違う。管理され、調節され、計画されている今の時代に、勉強ができて社会で報われるのは官僚くらいか。システム化は人間をロボットにするがゆえに反人間的である。が、システム社会にあってはシステムに順応する方がシステムから脱落するより良いとされている。
良いだけでなく、システム人間が楽という考えに浸る者もいる。システム社会で、「有能」な人間は、システムから外れた時点で、「有能」でなくなる。他人の評価などより自身を信じ、システムから外れて成功した人たちは少なくない。ジョブズやゲイツも大学に行くより自由にやりたいことを選んだ。システムから外れて独自の何かを創造することを親はリスクと考える。
東大で医師になるエリートを作ろうとする母。父親の権威のある家庭の子どもは、勉強以外のスポーツなどに興じる子が多いのは、そもそも父親というのは子どもに好きなことをやらせたいところがある。言いつけを守り、決まりを守るような男の子を父親は望まない。男の子の基本は何をおいても、「やんちゃ」であって、おとなしい男の子は、男親から見て魅力がない。
母親をあげつらうために書いているのではないが、母親の力が大きい家庭にあっては、子どもがシステム化される懸念がある。「母とは何か」という表題で、ネガティブな母を取り上げたいのではなく、いわゆる、「母なるもの」についての本質を思考したい。「世に母親ほど毀誉褒貶の著しいものはない」という見方は、母親の利点でもあり、同時に母親の病理であろう。
母親は一方で産み、養い、育て、愛と慈しみを注ぐ暖かさの源泉として、子どもから愛され、慕われ、懐かしまれる。しかし、他方では子どもを呑み込み、支配し、成熟を阻み、心を病ませる悪しき存在として、非難され、怖れられ、怨まれる。子どもの心の病の背後にしばしば悪しき母親像が見いだされる。子どもの非行、神経症、精神疾患の原因と名指しされる母でもある。
アメリカの精神分析医が、「スキゾフレニックマザー(精神分裂病因性母親)」なる概念を作り、「母原病」という言葉を生んだ日本の小児科医もいた。元愛知医科大教授の久徳重盛氏の『病める現代と育児崩壊』(1984年)という著書を読むと、家庭内の精神的崩壊の治癒が不可欠とある。家庭の精神的崩壊とは、歪んだ母親による子どもの歪んだ保育と指摘されている。
「母原病」という言葉には批判があったが、昨今は「毒親」などと辛らつな言い方になっても批判が起きないほどに、毒親の存在が歴然とした時代である。「毒親」とは一般的に母親を指していう言葉で、その理由としては、子どもの教育にかかわる家庭内での母親の存在感であろう。家庭のリーダーを夫とする自分にとって、母親主導の要因は父権の喪失としか映らない。