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殺人事件の加害者と被害者を持った子

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弥谷鷹仁容疑者と被害者で妻の麻衣子さんの間には1歳9か月になる娘がいたというが、おそらく麻衣子さんの実家で引き取ると思われる。理由は鷹仁容疑者の実家には母親の恵美容疑者(逮捕)もいて、引き取る状況ではない。求刑は25年の有期刑が予想され、判決は20余年程度と思われるが、子どもはいつしか加害者が父で被害者が母であった事実を知ることになろう。

何とおぞましいことか。こんな子どもに生まれてきたくはなかったろうが、事実は事実として受け入れなければならない。この子がどういう大人になるかの想像は難しいが、仮出所した父親も妻の実家とは縁が切れ、子どもの顔をみることもなかろうし、どの面さげて子どもと会えるというのか。人間にとって最も身近な問題を、乳幼児期に経験したこの子がいたわしい。

生を受けてもっとも身近にいるのが親。事情があって親のない子どももいるにせよ、父親が母親を殺すという境遇はレアケースである。その事実を知らないままに育ち、知らないままに生きていく可能性もあるが、昔と違って情報化時代であることを考えると、青年期になって事実を知った時のショックは大きい。だからと言ってあえて知らせる必要があるのか?

自分が祖父なら言葉を選び、適当な時期を見計らった上で念には念をいれて話す。その善悪はわからないが、本人が偶然知った時はもはや遅い。伝える義務が自分にはあると考える以上、話すであろう。知らないことが幸福で、知ることが不幸であるということではないとの考えも規範にする。自身がおかれている境遇や存在根拠は自身が納得するしかなかろう。

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それは理由の遺憾を問わずである。いかなる口実を弄したところで、彼女が真実を知ったしまった後になって、「配慮」という言葉は虚しく響く。真実を知ることより隠しておくリスクが高いことを念頭に、いかなる真実をも受け入れられるような育て方も育てる者の責務となる。内部に隠し事を持った人間はえてして不自然になる。彼女に両親のことを問われた際の覚悟も必要だ。

言葉で上手くかわせたとの思いは隠す側の都合のいい論理であって、本人は不自然さに気づいている。「配慮とは何か?」を前提にすれば難しい問題だが、こういう境遇の子には、「真実」の価値を見出すことが大事である。つまり、孫の心を傷つけたくないという配慮の是非と苦闘である。どうあがいてみたところで真実というのは、自分も相手も傷つかずには実行できない。

被害者となった娘の子どもを引き取り、育てていく過程で避けられない母のこと、父のこと、母の死因のこと、父の居場所のこと。そういう問題を避けて通れるものではない。孫は被害者の子でありながら加害者の子である。こうした大きな問題を本人が抱え込んで生きていかねばならない。竹取翁は、竹の中から生まれた事実を隠していただけなら比較にならない問題だ。

などと…、今回の悲惨な事件のその後の問題を当事者に成り代わって真剣に考えてみたが、難しい問題ゆえに考える価値はあろう。永山則夫死刑囚は無学でありながら獄中独学で執筆活動を開始し、1971年に手記『無知の涙』、『人民をわすれたカナリアたち』を発表し、1983年には小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞したのを機に日本文藝家協会に入会を申し込む。


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協会理事会にて協議の結果、入会委員長の青山光二、佐伯彰一ら一部の理事が、永山が刑事被告人であることを理由に入会に反対、入会が認められなかったことで、中上健次、筒井康隆、柄谷行人、井口時男が、日本文藝家協会から脱会するという事態になる。「いつ、どんな形で、殺人を犯さないとも限らない。という想像力は文学者に必要」と、中上は憤懣を述べた。

真実を価値とし、真実という恐ろしいものに立ち向かうことを自らにも孫にも求めることは、隠し立てするより至難である。真実を供与する側がその過程で、真実に負けてしまう場合もある。物事を隠し立てするのは、隠している自分を認める勇気がないがゆえに、「良心」とか、「配慮」を持ち出す。日本には被差別部落問題という陰湿な社会問題が根強く存在していた。

中上健次も被差別部落出身者である。自分のバンド仲間の友人に部落出身者は多かった。みんな気のいい仲間たちだが、母親は彼らとの交流を露骨に禁じた。「うちはあれらとは違う」と蔑み言葉を吐く母親に憎悪は増すばかり。「そこまでいうなら部落出身者の嫁をもらう」とまで言い放った。部落問題は下層階級を虐げることで自己満足を得るという愚劣な行為。

しかし、存在を知りながら我々も被差別者たちも、暗黙の了解という形で問題を避けていた。そうしたなかで、「部落民は一致団結せよ!吾々が穢多であることを誇る時が来たのだ」」という掛け声とともに、同和教育が始まった。部落民であることを声高に公言したことで、あえて問題を避けていた非部落民にも大きな戸惑いとなる。「寝た子を起こすのか?」と疑問視もなされた。

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問題を直視せず、遠巻きに見て見ぬふりをしても何も解決しない。部落民であることを親が隠している家庭も多く、それが急に眠っていた子を起こしたところで、子どもたちは傷つく以外に何もないという考えは双方にあった。が、部落解放運動は、「穢多であることを誇りとする」という強い姿勢に根づいていた。これまでの卑屈さから一転した強い気持ちが功を奏した形となる。

「真実を価値とし、真実という恐ろしいものに立ち向かうことを、自らにも子や孫にも求める」という運動は、確かに過渡期には問題も噴出したが、結果的に間違っていなかった。有色人種の差別問題と違って、同じ肌色、同じ民族の中に存在する差別は陰湿になりやすい。そこに風穴を開けたのは、部落解放同盟と被差別部落民の闘う強さ、一糸纏わぬ共闘姿勢であった。

1974年の八鹿高校事件は、日本共産党と部落解放同盟の対立が教育の場に持ち込まれ、流血事件に発展した。1980年の狭山同盟休校は、狭山事件裁判への抗議の一環として、部落解放同盟により同和地区の児童生徒は、1980年1月28日には学校に登校しないよう呼びかけられた。これに対し、各自治体の教育委員会は困惑したり、激しく反発した自治体もあった。

なぜなら、同盟休校は教育を政治運動の場とするだけでなく、同和地区の児童生徒だけが一斉に学校を休むことにより、誰が同和地区の児童生徒か明らかになってしまうためである。そうしたこともあって、部落解放同盟は被差別部落出身者、つまり同和地区出身者の生徒・児童に対して自己の出自をカミングアウトをさせる、「部落民宣言」などを通じて姑息さ・卑屈さを打破していく。

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親が殺人事件の加害者と被害者という宿命を負った子どもに罪がないのは、被差別部落に生を受けた子どもと同じこと。そのことで卑屈にならず、誇りをもって己が人生を横臥していくためには、周囲の無用な配慮よりも、周囲の強い気持ちに感化され、影響される必要がある。同情や慰めよりも大事なものは、権利の自意識であろう。親が殺人犯であれ、強く生きる権利が子どもにある。

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