「ある登校拒否児の事例」
中学三年の登校拒否の女子がいる。彼女はここ数年間はほとんど登校していない。彼女の毎日は、仕事から帰宅した母親に無理難題をいい、挙句の果ては暴力を振るい、それは深夜に及ぶこともあった。ある時点から、「なぜ私を生んだのか」と責め立て、母親を風呂場に押し込んで一晩中出さないこともある。それに見かねた祖母を突き飛ばして骨折もさせている。
暴力のターゲットは母親で、出刃包丁を突きつけたこともあった。ある時、「今すぐ寿司を十人前買ってこい」と母に命令し、深夜にも関わらず母が寿司を買ってくるとおとなしくなったこともあった。親を親とも思わぬ姿勢や言動に、ある精神科医は以下の分析をした。「子どもは母に無理難題をふっかけ、それを実行させることが目的ではなく、母親に自身を振り向かせたいのです。
暴力は象徴的表現であり、そこまでしなければ母親は彼女に心を向けなかったのです。彼女が母親から見棄てられたと感じるのは、『自分がこの世界に生きる価値のない人間である』のを確認することでもあった。彼女は極端なほどに自己肯定感が持てない子どもだった。母親が十人前に寿司を買ってきたとき、『自分はそれだけのことをされる価値のある人間』と感じていた。
母親があらゆる犠牲を払っても娘のことを思う母でいて欲しかったのです。こうした所作や心理は、甘えるときにそれができなかったことで起こると思われます」。そうした根源的なことも分からず、「十人前も食べると太るよ」といおうものなら、やっと獲得した安定感えお覆されてしまう。このての母親は心理的に子どもで、人一倍自己愛的ということができる。
深層を理解せず、「娘は自分を困らせて喜んでいるだけ」という被害者意識しかない。母親とは俗に子どもを産んで母になった人をいい、そのことと本来的な、「母親なるもの」とは別である。実態としての母親ではなく、心理学的・精神医学的な、「母親」と、「母親なるもの」を母親は持つ必要がある。母性愛神話が崩壊したこんにちにおいて、母は母を学ぶ必要がある。
人間にとって母親の重要性を科学的研究の対象としたのは、精神分析医のフロイトだった。彼は、「自由連想法」なる治療法で神経症患者の主観的な、「回想」を傾聴し、それをもとにその人の心的世界を再構成していった。こうした方法論をもとに、人間の心の形成に母親が重大な意義を持つことを認識する。このことは最晩年の論文『精神分析学概説』ではじめて言及した。
子どもの最初の性的対象者は養育する母親の乳房である」という象徴的な文言の論文の要旨は、「母親は両性にとっての人生における最初にして最強の愛情対象」であり、その関係は、「その後のすべての愛情関係の原型となるもの」であり、「生涯を通じて比類のない不変かつ独自の関係」とした。これを前記した登校拒否の中学三年生女児に当てはめてみる。
彼女は母親を一心に求めている。それが成就されない。彼女は母親という愛情対象とよい関係を持ったことはなかった。良い関係になったと安堵したとたんそこにはもう母親はいない。彼女の人間関係の持ち方は常に怯えと恐怖がつきまとっていた。そうしてついに、母親との人間関係を諦め、「食」という口唇活動による満足へ移行することになった。
そう考えると、ストレスが高じて食べる人の心理も同じものである。「ストレス食い」とも「過食症」ともいう心理は欲求不満である。フロイトの母親についての着眼というのは、フロイト最晩年の到達点となっている。フロイトといえばなにより、「エディプスコンプレックス」が有名で、これは男根期(エディプス期)に生じはじめる無意識的葛藤として提示された。
フロイト研究や阿闍世コンプレックス研究で知られる精神科医小此木啓吾は、母親についてこう述べている。「日本人の患者が欧米患者と比べて、容易に母子依存関係の水準に退行しやすいその基本的葛藤は、母に対するアンビバレンス(依存・甘えによる母への憎しみの抑圧)にある事実に注目」した。上記の「阿闍世(あじゃせ)コンプレックス」とは精神分析の一概念である。
阿闍世とはサンスクリット語で、「アジャータシャトル」といい、未生怨(出生以前に母親に抱く怨み)を意味する。出生以前に母親に抱く怨みとは奇異であるが、「母親は子どもの出生に対して恐怖を持ち、子どもはそれに対する怨みを持つ」とされた。1940年代には、精神分裂病患者は本質的意味において、「母なるもの体験」を欠いて育ったとの研究論文が発表された。
精神分析理論における学問的母親像はともかく、子どもからみた実像としての母親は、それこそ母親の数だけ、子どもの数だけあるだろう。高校2年生の登校拒否男子の実例として彼の言葉からみる母親像を考えてみる。「自分が中学の頃、母親と自分の間には、言ってはいけないことなどなかった。喧嘩で感情的になると、二人とも容赦ない言葉も平気でいいあっていた。
テーブルをひっくり返したり、部屋をめちゃくちゃにしたことはあったが、コップで水をかける程度以外に母に暴力を振るったことはなかった。しかし、その頃はいつも、母親が死んだらその時は、母親の遺骸に向かって心の底からあんたが嫌いだったと、最後の言葉として言ってやろうと思っていた」という。これを聞いたとき、彼はこれほどまでに抑圧されていたと感じた。
なんでも遠慮くなく言い合ったのではないのか?それでこの抑圧とは、男の子には言葉で言い足りるというのはないなと、自分はそう感じた。暴力を振るわなかったのは、振るいたくとも振るえなかったという抑圧であろう。分かる気がする。自分も暴力は一度も行使しなかった。チビ母など蹴とばせば吹っ飛ぶが、親に手出しは厳禁という暗黙の最終ラインが存在した。
侵すべきではないというデッドラインは、無意識に順守すべきものだったようだ。近年、親や教師に暴力を振るう子どもは、そうした歯止めというものがなくなったからである。校内暴力や家庭内暴力が頻繁に発生するのを、世代の相違と驚きをもって眺めていた。親に一度でも手を挙げると、それはもう親子ではない。暴力を振るわないことは親子いう形の最終砦であった。
高校生の彼の言葉には、母親に対する非常に深く根強い怨みや憎しみ感情とともに、自らが象徴的に殺すことのできない母親への矛盾と葛藤が窺えるものとして、印象深い。彼は母一人子一人の母子家庭である。父は彼が2歳の時に離婚し、母に引きとられた。彼が4歳の時に母が再婚したが、義父は仕事が思うようにいかないときは、子どもに八つ当たりをしたという。
母親の言葉で最高に頭にきたのは次の言葉。学校に行かず家でゴロゴロしていたとき、「お前のそういうところは父親の血だ。うちの家系にそんな怠け者はいない」といわれた。さすがに頭に血が上り、「だったらなぜ結婚したんだ。自分が選んだ相手だろう!」そういって、この時は部屋をめちゃめちゃにしたという。こんなつまらんことを時に女はいったりする。
なんでも他のせいにする習性だからだろうと自分は見ている。人のせいにすることで、自分の罪を逃れようとするのが女の自己防衛である。だからか、そのためにはどんなことでも見境なく口にしてしまう。「そんなことまでいうか?」というような体験はすくなくない。高校生の孫に向けたそういう発言を聞いていると、これが自分の娘かと呆れ、同時に親の顔を見たくなる。