悩みとは、不安であり、怖れでもある。どれほどの悩みの種があるのか、考えたこともないが、身体的な悩み、親・兄弟・親族など身内の悩み、異性や恋愛についての悩み、自分の存在と価値観についての悩み、死への不安という悩み、失われたものへの悩み、やってくるであろう未来への悩み、そういった自分を取り巻くあらゆるものに対し、悩みはついてくる。
取り払える悩みもあれば、取り除けない悩みもある。悩みや苦悩を描いた小説は多く、歌の内意に多く綴られている。都はるみの『北の宿から』を初めて耳にしたとき、メロディーよりも歌詞に引き込まれた。着てはもらえぬセーターを編むのは女の情念、女心の未練というが、着てくれるであろうセーターを編むのは心に張りがもたらされ、充実した時間となるだろうが…
愛されないと分かっていながら貢ぐ心情と同じものか?何の期待は得れなくとも、与える喜びなのか?こうした独善行為というのは、いかにあがこうと虚脱感から免れることはなかろう。自己とは、他人の関係とのなかに存在する。孤独を好む人間は決して自己を喪失してはいない。自己喪失状態というのは、自己を頑なに閉ざした状況であって、孤独とはちがっている。
フランス在住のある日本人経営者がこんなことをいう。ジョギングでパリ郊外の公園を走っていた。毎日、同じベンチに座る寂しげな老人と顔見知りになり挨拶を交わすようになった。ある日、彼は何気に老人に尋ねる。「毎日、ここで何をされているんです?」、「亡くなった妻の思い出に浸っているんです」、「そうですか。それはお寂しいですね」と同情の言葉を述べた。
すると老人は笑顔になってこういった。「違います。私は妻との楽しい日々を思い出しているんです。だから、ここにこうしているときが、いちばん幸せなんですよ」。寂しそうにベンチに腰掛ける老人が、もっとも至福の時間を過ごしているなど想像もできない。「人はみかけに…」などというが、人は人を勝手に想像し、勝手に判断するものという事例である。
「着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編んでます」と、言ったわけではなかろうが、こうしたシチュエーションを想起し、日本人的感性世界に演歌の真髄を見出すのも才能である。愛されてもいない男に貢ぐ至福感を、何とバカな女であるかと言ってみても、人は人の深層には至れない。「事上磨錬」という四字熟語は、「人は須らく事上にありて磨すべし」の意。
「我々は自分の生活のなかに起こる避けられない行いのなかで、自分という人間を鍛え上げなければならない」ということを言っている。他人に情を寄せながらも、人は無意識に人との差異化で自己を満たす。公園の老人しかり、貢ぐ女しかり、セーターを編む女しかり…。人に情を寄せるときにはどこか思い上がった自己がいる。同情を求めぬ強い心は、むやみな同情を排す心にもなる。
人との交流は、精神的交流とて交流である。ときに生きる意欲を湧かせるもの。ひとり恋愛は片想いともいい、それすら生きる意欲を湧かせる。『悲しき片想い』という歌は、60年代に弘田三枝子や伊東ゆかりが歌っていた。原曲はヘレン・シャピロの『You Don't Know』で、邦題にはどこか違和感がある。片想いを心に前向きに生きていこうという少女を歌っている。
Although I love you so
Oh you don’t know you don’t know
Just how I feel
For my love I daren’t reveal
I am so I’m so afraid
You might not care
Every-time you pass me by
Oh you don’t know you don’t know
What I go through
Seeing someone else with you
Oh I wish the one with you were me
But you don’t know
Oh you don’t know you don’t know
Just how I feel
For my love I daren’t reveal
I am so I’m so afraid
You might not care
Every-time you pass me by
Oh you don’t know you don’t know
What I go through
Seeing someone else with you
Oh I wish the one with you were me
But you don’t know
あなたを愛しているのに
ああ、あなたは知らない、あなたは知らないのね
わたしは感じているの
愛を告白できないのは
とってもとっても恐いから
あなたは気にしてないのかも
何時だって通り過ぎるもの
ああ、あなたは知らないの、あなたは知らないの
耐えているのよ
あなたと一緒の誰かを見ながら
ああ、あなたといるのが私だったらなあ
でも、あなたは知らないの
あなたに話したいわ、もしも
いつか気付いてくれると信じられたら
でも、そのときまでは
ああ、あなたは知らない、あなたは知らないのね
わたしは感じているの
愛を告白できないのは
とってもとっても恐いから
あなたは気にしてないのかも
何時だって通り過ぎるもの
ああ、あなたは知らないの、あなたは知らないの
耐えているのよ
あなたと一緒の誰かを見ながら
ああ、あなたといるのが私だったらなあ
でも、あなたは知らないの
あなたに話したいわ、もしも
いつか気付いてくれると信じられたら
でも、そのときまでは
こんなの決して教えないわ
そうよ秘密にしておかなくちゃ
あなたは知らないの、あなたは知らないの
この片想いを明かすことがどんなに難しいのか
それが恋に落ちた心を壊してしまうからと
そうよ秘密にしておかなくちゃ
あなたは知らないの、あなたは知らないの
この片想いを明かすことがどんなに難しいのか
それが恋に落ちた心を壊してしまうからと
なんという精神的な大人の少女であろう。日本人が勝手に『悲しき片想い』と題したのは、日本人向けの情緒性に向けたもので、原題の中身はむしろ「楽しき片想い」である。片想いのひと時、恋に恋するを楽しむ少女の心情が現れている。最後の一節、For it breaks my heart to be in love, には少女らしさを垣間見るが、全体的には片想いを楽しんでいるようだ。
片想いは切なく苦しいものというのが相場である。それでも生きる情熱になる。何とかしようと試みるが、勇気のいることだ。フラれたときのショックを考えると、このままでいいというのも分かる。とくに初恋なら、なおさらであろう。洋楽すきの自分ゆえ脱線するが、ヘレン・シャピロの魅力的な歌声は無神論者の自分でさえ、神からの贈り物という以外にあり得ない。
『悲しき片想い』発表時は14歳であったが、ハイスクール時代のニック・ネームは「Foghorn:霧笛」といわれていた。早熟でありすぎたのか、1961年の大ブレーク以降、レコード・セールスは伸び悩むも、彼女のハスキーボイスは一時代を築いた。それにしても、「霧笛」とはすごい表現で、日本では絶対に言わない。霧やモヤで視界がなくとも響き渡るとの意味だろうか。
「過去に激しい苦悩も味わわず、自我の大きな劣敗を経験しなかった、打ち砕かれたことのない人間は何の役にも立たない」と、ヒルティは書いている。では苦悩は人間は何の役に立つのか?文字や言葉にせずとも自身の糧になっている。食べ物が体の滋養になっていても分からないものであるように…。人間は自身に気づかぬことがたくさんあるが、何かを通して気づくことがある。
「苦は楽の種。楽は苦の種」というのを将棋から学ぶ。苦しい情勢でも、腐らずじっと我慢をし、耐えていれば光が見えることもある。投げやりになってはダメだと言い聞かす。反対に、情勢があまりにも良すぎるとき、心が緩んで油断をする。気づいたときは遅かれし、状況は一変している。上の慣用句はまさにこのことを知らしめてくれるが、人間はままならない。
たくさんの悩みを人から聞いた。容姿や体の悩み、親の悩み、子を持つ親の悩み、進路や仕事の悩み、人間関係の悩み…。この中で、身体・容姿の悩みについて自分は、「気にするな」を禁句にしている。一見、勇気を与える良い言葉に思われがちだが、これは有効でないばかりか気休めにもならない。これらは大抵の場合、本人が気にすまいと努力してきたからである。
気にすまいと思いつめた人間に、「気にするな」といってみてもはじまらない。だから、彼氏ができないことに繋がるが、こういう場合には相手の彼氏の好きなタイプや要望とか、そういうことばかりに会話の時間を割くようにする。こういうのをポジティブ思考と捉えている。彼氏ができるとか、できないとかの話は一切しないのは、どんな女性であれ彼氏はできると自分は思っている。
忠告などではない。「自分は不細工」というのは意志の力ではどうすることもできない、変えることもできないのだし、人間の意志とは、意志の在り方というのは、感情に対してでなく行動に対して働かせるべきである。自分の容姿が気になるにも関わらず、男の人の前で恥ずかしいにも関わらず、彼氏なんか絶対に無理にも関わらず、大事なのは態度・意志である。
多くのことは、「…にも関わらず」という態度こそが、その人の様々な、精神的な病(悩み)を解決することになる。自分の中の何かを隠すことは、自分らしい振る舞いができなくなってしまう。自分らしく振る舞う人の多くは活力に満ちている。自らの肉体と、自らの精神を活力的に、有効に使えるように人は人に接していくべきである。不毛なアドバイスなんかより…