唐突な表題のようだが、簡単なようですぐに答えられないなら考えてみようと…。むか~し彼女から同じ質問を受けたことがあって、自分はこういう感じに話す。「人はなんで悩むと思う?」、「そりゃ悩みがあるからだよ」、「マジメに聞いてよ」、「マジメに聞いてるよ」、「だったらマジメに答えて!」、「マジメに答えてるよ」、「答えになってな~い」、「正しい答えだよ」、「……」。
「どういう悩みがあるんだ?言ってみろよ」、「イッパイあるけど、可愛くなりたい」、「はぁ?それが悩みか?」、「女の子だもん」、「それって欲だろ?」、「ちが~う!悩みです」。と、こんなくだらん会話、今ならできない。若さってのは、若くていいよ。「なぜ悩むのか?」について即答できかねるといったが、同名の本があるのを知っている。読んではないが。
気にはなったが買わなかった。改めて調べると1983年刊行で、著者は精神科医で医学博士の岩井寛氏とある。岩井氏は、1986年にガンで逝去されている。「なぜ悩むのか?」、考えれば分かりそうだし、誰でも悩みはあろうから自身が考えられること。が、「なぜ悩むのか?」と、そんなことを考えるメリットは何であるか?一般的に人は悩みの対処法を考えるだろう。
『若きウェルテルの悩み』という有名な本がある。初めて読んだのが高校時で、以後二度と読むことはなかった。表題に、「悩み」の文字がなくとも苦悩を描いた小説や文学作品は少なくない。『ウェルテル』はゲーテ不朽の名作だが、学生の本離れの昨今も、読まれているのか?武者小路の『友情』、漱石の『こころ』、そして『ウェルテル』…、いずれも恋の悩みである。
若いといえばあまりにいじましく、うじうじ感漂うこの手のストーリーを、30歳のおっさんになって読めるものではない。恋愛を擬人化すれば、まるで不思議な生き物のようである。人はどうして好きな人の前で押し黙るのか?なんでもない人なら、なんでもないように気軽に話せる。さして好きでもない相手から愛の告白を聞いても、動揺もなければ嬉しくもない。
なのに、好きな相手のなにげない一言に動揺する。確か、中3だったと記憶する。好きな女性から年賀状をもらい、「初春のお慶びを申し上げます」という言葉の意味を考えたのを忘れない。「明けましておめでとう」が定番の中学生にしては仰々しい言葉だったこともあって、何か特別の意味があるのだろうと、筆跡を何十回眺めたことか。当たり前だが、文字から何も掴めなかった。
今となっては若さというのもいたましい。何でもないもののなかから必死で意味を探ろうとする無知がいたましく懐かしい。それとて悩みであったかもしれない。「初春のお慶びを申し上げます」という語句に、何の隠された特別な意味があろう。男同士のガサツな賀状の文言からすれば、それはそれは清楚な言葉であったと、当時の印象だけは今も忘れていない。
他人との関係の中で初めて自己を認識させられる恋愛の魔力である。友達関係ではそれほどの切なさを感じる心情はない。自己の存在感や存在証明、あるいは自己探求などから、自己を追い求めたあげく自殺した人たちの日記をみると、病的なまでに感傷的である。高野悦子の日記も、自分は他人のために何ができるのか、という視点はまったくといっていいほどない。
どこまでいっても自分は…、自分が…、という自分の世界である。世界に向かって自分を開けば、そこに自己を発見できるようものだが、世界に背を向け自己に埋没する。こういう形で自分を突き詰めて深刻に考え込んだなら、自殺する以外に手はなさそうである。それほどに人間は罪深く、意地汚らしい存在であるがゆえに、自己から他人の世界に飛び込む必要がある。
「最高の自由は、最高の共同である」とヘーゲルは言う。自由というのは決して他人との関係をなくすことではなく、他人と関係することである。他人との関係の中で、外に心を開こうとしない自己防衛的な姿勢こそが不自由であって、自由とは他人と心を開き合い触れ合うことである。自由と孤立をはき違えないこと。自分は憶することなく他人の中に入っていこうとした。
受け身の人は共同世界に向かって自分の心を閉ざすばかりか、「自分は心を閉ざしている」ということを他人に知らせようとする。なぜだかわからないが、そういうタイプから、「他人の世界に入ると自己をなくすようで怖い」という女がいた。性格もいろいろだから、用心深さも、自閉的性格も個々の性質である。が、他人と一緒にワイワイしたから自己がなくなるものでもない。
ようするに臆病なのだろう。それプラス劣等感も起因する。臆病さは、用心が好奇心を上回る。劣等感は、相手にバカにされたくない、相手に自分の欠点を悟られたくないと、そんな自己防衛にエネルギーを消費する。怖れる気持ちに嘘はないだろうが、怖れる必要のない人を怖れるという場合は結構ある。オオカミのような男はいるにはいるが、男がみんなオオカミではない。
小学生のころに、叔父に性の手籠めにされた女性がいた。おとなしい性格が災いしてか、記憶から消し去りたいままに大人になった女性。他人に知られたくない自身の過去であれ、躊躇いや歪な思い出は隠せない。いつまでも自身に苦悩し、無理をするより、心を開いて告白できる相手に巡り合うことが何よりである。告白は相手からいたわりや思いやりに繋がっていく。
愛されたいからと男に貢ぐ女性がいる。相手の愛を求めての行為であるのに、男にとってはただの金づると利用されているのが明白。「それでもいい。尽くせるのなら…」という頑強な女性であった。「着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます」という歌詞は、女心の未練であるという。愛されていない、愛を手にすることなど毛頭ない、それでも尽くしたい?
得れなくともいい、失うことの怖さであろう。もちろん、一抹の希望は捨てていない。「他人にすがってはダメだよ」という言葉は、すがりたいものには伝わらない。母親が乳児の世話ができるのも、半分はしてあげる喜び、もう半分は実はすがっているのである。男に尽くす喜びは、男からすがられる(必要とされる)喜びでありながら、実は無意識に自身もすがっている。
そういう状況を、「善し」とする人間には、新しい世界へ自分を投げ出す決断など一文字もない。彼がわたしから離れていったら、もう誰とも巡り合うことはないという不安と自信のなさ、足して劣等感という。女は不思議なことを言う。「自信がないんです」というのを言い訳にできる生き物である。男にいないわけではないが、そういう男の言い訳を社会は認めない。
「何で〇〇社から契約をとってこない!お前の担当だろ?」、「いえ、新しく赴任した部長は遣りてで手ごわくて、自信をなくしそうで…」、「何を甘ったれたこと言ってんだ。今スグ行って取ってこい!」。行為が重視されるのが男社会であり、言い訳だけは容赦ない。上司にハッパをかけられた彼は、しょんぼりと同僚に苦悩を明かそうと、悩みは誰もとれるものではない。