これこそはと信じれるものが この世にあるだろうか?
信じるものがあったとしても 信じないそぶり
信じるものがあったとしても 信じないそぶり
吉田拓郎の『イメージの詩』は、シングル『青春の詩』などと共に、「広島フォーク村」時代に製作した楽曲で、同世代の人間もしくは世代を超えた人たちにも、少なからず影響を与えたろう。冒頭に歌われる歌詞の一節だが、当初から素朴な疑問だったのは、なぜ、「信じないそぶり」をしたのかである。こうして歌詞をよく見ると、「信じる」と、「信じれる」の違いに気づく。
「信じれる」は、「信じる」の未然形である、「信じ」に可能の助動詞、「られる」がついた、「ら抜き言葉」である。「信じる」と、「信じ(ら)れる」の違いを分かりやすくいうなら次の文章が適当か。「自分を信じるゆえに、相手を信じられる」。できるかできないかではなく、するかしないか、これが、「信じる」に能う。ならば、「信じられる」は、できるかできないかということになる。
「信じられるものがあったとしても、信じないそぶり」の意味を考えると、「信じれるものがあって、それを信じたいけれども、猜疑心もあってか全面的には信じられない。そうそう物事を簡単に信じていいのだろうか?」という用心さが、「信じないそぶり」ではないかと…。信じてはいるのだが、対外的に軽薄に見られたくない。だから、信じないそぶりをするのだと…。
「お前はそんな(アホな)ことを信じているのか?」と言われたくない気弱さも見え隠れする。拓郎は案外と小心者のようだ。まさに、「文は人なり」である。信じられるものがあったなら信じればいい。信じないというなら、信じられるものでないということだが、「信じられるものがあるのに、信じないそぶり」という行為は、どこかニヒリズムの臭いが漂っている。
ニヒリズムとは、「この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場」である。この立場でいうなら上の言葉は、「どうせ信じたって無駄でしょ」という風にとれる。「それでも信じたい」というのも人間の情念である。オウムの信者たちは、「信じられる」ものを信じたのだろう。
有神論者が、「幸福は神から授かり、不幸は神の行為ではない」の言い方に笑ってしまう自分である。「占いもいいことだけを信じる」という女性がいるが、同じ言い方に聞こえてしまう。幸福も不幸も、幸運も不運も、神とは何ら関係ないところで起こるとしか思えない。ならば運とはなに?「運」とは、その人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせを指す。
「運」と神の関係もないと思っている。自然に起こる事象を、人間が都合のいい解釈に置き換えて、「運」、「不運」と言っているに過ぎない。例えば、1000人の中からくじで生贄に選ばれた少女を不運といい、1000人の中で一等賞が当たった人を幸運という。自然の中で偶然に起こったに過ぎないことを必然と考えたり、人間の都合という解釈が、「運・不運」を決めている。
「信じる」、「信じない」は善悪というより選択だから、麻原を信じる選択をした者たちは、如何に行為を悔いたところで責任は自分にある。「人がこうしろといったからした」という言い訳は、子どもなら許せても大人が言えば笑止であろう。まあ、子どものときでさえ、「お前は人が死ねといったら死ぬんか!」と言ったりしたが、男の言い訳ほど見苦しいものはない。
「親バカ」という方便で自分を甘やかすのを戒めるのが、正しい親の在り方だと思っていた。子どもへの厳しさは、親自身への厳しさと考えていたから、心を鬼にしなければ実行はできない。子どもに嫌われたくないとか、子どもの喜ぶ顔を見るのが癒しになるという気持ちは捨てた。そういう自己啓発が親に必要だった。子どもに、「好かれない」を前提にやるのは楽な仕事ではなかった。
どんな子どもも自ら成長して親になれば、親がどういう気持ちで自分に厳しく接してしていたかを知ることになる。分からなくてもいいが、分かる子どももいる。「分からなくてもいい」とは、済んだことだからで、後になって感謝されてもどうということはなく、大事なのはその時その場のこと。昔の恋人に再開し、「あの時ああだったのね」と誤解が晴れるのと違って親業は仕事である。
第一回共通一次試験は1979年1月に実施され、彼らを偏差値世代といった。オウム信者では上祐史浩が該当する。上祐は『宇宙戦艦ヤマト』と超能力好きな少年で、早稲田大理工学部卒業後は、特殊法人宇宙開発事業団に就職するも、1ヶ月で退職しオウムに出家した。村井秀夫は上祐より4歳年長だが、彼もSF少年で、望遠鏡で星を観察したり、超能力に興味を抱く少年だった。
真面目な村井は、大阪府立千里高等学校ではただ1人無遅刻無欠席を成し遂げ表彰され、卒業後は大阪大学理学部物理学科にトップ合格、X線天文学を専攻し、大学院を出て神戸製鋼に入社、金属加工の研究に携わるが、会社にも家庭にも生きがいを感じなかったという。麻原彰晃著『超能力秘密の開発法』に感銘し、1987年オウム大阪支部を訪れ、翌日会社に辞表を出した。
これまで述べていなかった上祐と村井の経歴を書いたが、彼らにとって、「これこそと信じるもの」がオウムであった。元信徒らの発言や手記をたどると、神秘体験などの好奇心や仕事への絶望感から入信後、「ここにしか真実はない、自分たちの居場所もない」と思いつめていったようだ。宗教の魔力とはそういうもので、脱会することはすべての自分を否定せねばならない。
改宗も脱会も勇気のいること。かつて、「エホバの証人」信者の脱会に携わった時に発せられた信者の言葉や慟哭は、悲壮感漂うものであった。信じる宗教こそが彼らの生きることの絶対善であり、彼らにとっては宗教というのは、生活の中で呼吸する空気のように必要不可欠なものとして根付いており、「宗教を辞める」という概念すら思いつくことはなかったようだった。
生きるために必要な水や空気と同じ概念だから、「脱会=死」を意味することになる。これほどの世界の存在を傍から見るだけで、恐ろしい世界であるのが感じられた。宗教の狂気性は信者以外には歴然だが、狂気の教義に染まった信者たちには、狂気の概念がまったくない。「洗脳」とは、「brainwash (脳を洗う)」の日本語訳であって、「洗う」に特別の意味はない。
英語の、「wash」は、「瓶などの中を洗う」という意味がある。脳を容れ物に例えてその中を洗う(それまでの考えをなくさせる)という比喩として使われているのかも知れない。日本語的な意味での、「洗脳」なら、むしろ脳を洗ってきれいにするという表現に受け取れる。オウムの内部組織は省庁制を採用し、トップを〇〇大臣とするなど、おママゴト風にシステム化されていた。
システム界にあっては、システムに殉じることが楽である。システムの内部に居る者は外から眺めることはできない。ばかりか、システムを攻撃する者には巣を荒らされたスズメバチの大群のように襲い掛かる。彼らはいかなることがあろうと、システムにしがみつく以外に自己の存在証明を得ることはない。理解不能なオウムだが、その程度の信者の心情は理解できる。
上祐史浩は、「麻原の空中浮揚はヤラセ」と発言したのが2012年。麻原の『超能力「秘密の開発法」』が1986年発刊だから26年も経っている。「最初から嘘と見抜いていたが、当時は言えなかった」と調子のいいことを抜かす、「ああいえばジョーユー」のような御都合主義男は信用できない。「自分はバカではなかった」と言いたい彼のしょぼい自尊心が醜い。