麻原ら7名の死刑執行がなされて10日を過ぎた。不思議なものでそのことがだんだんと薄れていくのは、日々の日常の移り変わりからすれば不思議というより真っ当なことだろう。大雨により被害も甚大で、広島県だけでも死者は108人となった。死刑もさることながら、崖崩れや河川の氾濫という自然災害で命を落とす人もいるのかと、いたたまれない気持ちに襲われる。
自然災害や交通事故や病死や死刑しかり…、様々な死者の報に触れるが、こうした場合に我々は死を直接見るではなく、死の報から知るということになる。直接目にする死より、報じられる死がほとんどである。肉親の死、知人らの葬儀にでけた場で体験する死は圧倒的に少ない。数日前だが、イノシシの子どもがクルマに跳ねられたのか、道路わきに置かれていた。
道路上でクルマに跳ねられた動物や、飼っていたペットの死に遭遇することもある。生きとし生けるものはすべて死ぬという事実を知識として得ている。このブログのテーマは様々だが、始めたきっかけは遺書替わりであった。他界した父が何か書き留めていたものがあったなら、読めば思い入れもあろうと、そんな気持ちで始めて10年が経った。今なお家族には内緒である。
炎天下の中、災害の爪痕の片付けは大変のようだ。家が壊れたり、水につかったりで2000人近い人たちが避難生活を強いられている。災害を前に、自然というのは何と無慈悲であるのか?そんな思いも過るが、実際は自然に慈悲も無慈悲もない。こんにち「飢饉」という言葉は死語だが、飢饉で作物が実らず、雨乞いもした。そんなときの雨は、「慈雨」といわれた。
日照りが続けば雨を望み、豪雨が続けばそれとて困る。ついつい自然の慈悲の無さを責めたくもなるが、自然には慈悲も無慈悲もない。起こったことは起こったことに過ぎず、それだけのことだ。麻原ら7名の死刑執行には、国の内外からは戦後最大規模の死刑執行であると衝撃が走った。それにしてもなぜ、死刑執行に対する非人道的との批判は起きるのだろうか?
欧州連合(EU)加盟28カ国とアイスランド、ノルウェー、スイスは6日、今回の死刑執行を受けて、「被害者やその家族には心から同情し、テロは厳しく非難するが、いかなる状況でも死刑執行には強く反対する。死刑は非人道的、残酷で犯罪の抑止効果もない」などとする共同声明を発表した。そのうえで、「日本には、引き続き死刑制度の廃止を求めていく」とした。
EUは死刑を、「基本的人権の侵害」と位置づける。欧州で死刑を執行しているのはベラルーシのみで、死刑廃止はEU加盟の条件になっている。加盟交渉中のトルコのエルドアン大統領が2017年、死刑制度復活の可能性に言及したことで、関係が急激に悪化したこともある。法制度上は死刑があっても、死刑判決を出すのをやめたり、執行を中止していたりの国もある。
ロシアでは1996年に当時のエリツィン大統領が、人権擁護機関の欧州評議会に加盟するため、大統領令で死刑執行の猶予を宣言、プーチン大統領もこれを引き継いだ。2009年には憲法裁判所が各裁判所に死刑判決を出すことを禁じた。韓国では1997年12月、23人に執行したのを最後に死刑は執行されていない。2005年には国家人権委員会が死刑制度廃止を勧告した。
今回の死刑執行を伝えた米CNNは、日本の死刑執行室の写真をWebに掲載。「日本では弁護士や死刑囚の家族に知らせないまま、秘密裏に死刑が執行される」と指摘した。ロイター通信は、「主要7カ国(G7)で死刑制度があるのは日本と米国の2カ国だけだ」と指摘。日本政府の2015年の調査で、国民の80.3%が死刑容認を示す一方、日弁連が2020年までの死刑廃止を提言していると報じた。
自然が起こすことに慈悲も無慈悲もない。自然に感情はなく、人間がそのように解釈するだけだ。人間界で起こることにはどうやら慈悲や無慈悲がありそうだ。人間が感情の動物であるからで、死刑制度廃止は世界の潮流でありながら、他国から非難されながらも死刑制度を継続する日本人は無慈悲な国民なのか。自分も容認賛成であり、80.3%の中の一人である。
では、「死刑は廃止すべき」との回答は9.7%で、「裁判に誤りがあった時、死刑にしたら取り返しがつかない」(46.6%)、「人を殺すことは刑罰であっても人道に反し野蛮」(31.5%)、「死刑を廃止してもそれで凶悪犯罪が増加するとは思わない」(29.2%)、「凶悪犯罪者でも更生の可能性がある」(28.7%)などとなっている。死刑容認を支持した人が挙げた理由は以下。
「死刑を廃止すれば、被害者やその家族の気持ちがおさまらない」(53.4%)、「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」(52.9%)などとなっている。死刑という刑罰についての批判や意義はいろいろあろうが、「人の命を奪ったら命をもって償うのが当然」という報復論とは別に日本人の、「死をもって償う」という謝罪を信奉する。阿南陸軍大臣は、「一死大罪を謝す」と腹を切った。
己の身勝手で人の命を奪っておきながら、「死をもって償う」という自省に至らぬ人間に対しては、国家がそれを命じるというだけのこと。本当は、主体的に率先して死を所望すべきところだが、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」というのが人間である。殺された被害者の声なき声を加害者は、死刑判決を受けて刑が執行されるまでの期間内に感じ取って供養すべきではないか。
先に執行された7名の死刑囚にあって、広島拘置所で執行された中川智正は、最終意見陳述で、「一人の人間として、医師として、宗教者として失格だった」と謝罪した。中川の母は、「あの子がいつこの世からいなくなったとしても当然だと思っています。償いはそれしかありません。いえ、そんなことをしたって償いにはなりません。執行後に迎えに行きます」と述べていた。
中川智正母子に見る、「覚悟」という態度が好きだ。「好き」とか、「嫌い」とかは、言葉的には単純であるが、人間というのは、「好き嫌いこそがすべての始まり」ではないかと考えるようになった。「好き」なものも、「嫌い」なものも、大事であるということ。「息子はいつ死んでもいい」といった母、智正も手紙で交流の相手に、「死ぬ覚悟はできている」ようなことを述べていた。
諦観のように聞こえるが、「もう死んでもいい」というのは見方を変えると情熱である。そういう見方さえできるようになった。カミュの『異邦人』に、「不条理とは、死にたくないのに死んでいかなければならない人間のありさまである」という行がある。人間が生きていることの幸福を感じ取ることは、死にたくないということにつながらない場合は、どういうときであろう。
本当の幸福を感じ、味わっているとき人間は、「もう死んでもいい」と感じても不思議でない。それほどの感動と体験を味わえるのは素晴らしい。中川の母の言葉には息子に対する悔いというより情熱こそ感じられる。「長男なのに生きてるときは何もしてくれなかったんだから、あの世で世話をしてもらいます」。こういう心情は、男親には到底理解できない母の情熱である。