オウム事件は超高学歴エリートたちの多さが特筆され、誰もが「なぜ?」という疑問を抱いたように自分も同じ疑問を持った一人だった。がしかし、エリートという言葉を直視すれば、エリートとは、社会の中で優秀とされ指導的な役割を持つ人間や集団のことであるなら、彼らはオウム真理教という組織の中でエリートだったに過ぎず、社会のために何の役にたっていない。
別の見方として、現役の医師であり、東京大学医科学研究所を経て医療ガバナンス研究所を主宰する上昌広氏は11日、「オウム真理教事件は受験エリートの末路」と記している。有名大学卒という高学歴所有の彼らが、社会の中で優秀とされる指導的役割を持つエリートどころか、彼らは社会で挫折し、見切ってオウム真理教に入信と理解する。出家であって挫折ではないというが…?
宗教に身を投じるために物理や化学を専攻し、あるいは医師免許を取ったわけではあるまいが、東大出の芸能人もいれば、東工大卒のフォークデュオ、慶大出の漫才師もいたり、それを挫折と思うか否かは本人の意識。他人がどう見るかそのことは問題ではない。さらにいうなら、理学部や法学部を出て営業や事務職のサラリーマンなど珍しいことではない。
オウムの高学歴信者も、学歴欲しさに大学に行ったと思えばどうということもないが、「オウム真理教事件は受験エリートの末路」を書いた上氏は自身の経験を元に、「(オウムに入信した高学歴信者たちの)背景にあったのは、リアリティーの乏しさ。私と入信した友人を分けたのはわずかな差だった」と振り返る。上氏も実はオウム真理教に少しかかわっている。
高校(神戸市の灘高校)、大学(東京大学)の同級生の中に幹部になった人がいたという上氏。特にI君とは仲が良かった。彼は真面目で信頼できる人物だった。医学部時代や研修医のころ、I君からはしばしば電話がかかってきた。夜中に私のマンションまで車で迎えにきてくれて、南青山の教団の道場にお邪魔したこともあり、カレーとジュースをごちそうになり、勧誘もされた。
自分たちの担当は井上嘉浩元死刑囚だったという。「当時、NHKスペシャルでチベット密教が取り上げられ、私も関心があったので番組を観て、その後出版された本も読んだ。I君らの主張は基本的に番組で報じられている内容と同じだった。私はチベット密教という権威に抗いがたい雰囲気を感じた。I君と井上氏からは、富士山の裾野で修行しようと何度も言われた。
「信頼する友人がいるのだから、一度だけ行ってみようか」と何度も思ったが、最終的に私は行かなかった理由は彼らが、『剣の達人になれば、気のエネルギーで接触しなくても切れる』と言ったことにある」。高校時代から剣道をやっていた上氏は自信のあった剣道で挫折経験がある。大学にも強い選手は多かったこともあって、上氏は当時、「剣はしょせん膂力」と考えていた。
「膂力(りょりょく)」とは、人間の力、腕っぷしの意味で、それからしてオウムの主張はリアリティーのない机上の空論に感じたという。将棋の羽生竜王も、「天才とは努力し続ける人のこと」といった。数日前には若手の実力者永瀬拓矢七段が、「将棋に才能はいらない。必要なのは努力のみ」といった。ある有名なピアニストも、「才能だけでピアノは弾けない」といった。
負けても言い訳の多いプライドの高い相手に、「プライドで将棋が強くなれるんか?」といったことがある。「努力にプライドは無用だろ?」との意味だったが、言われてむっと来たなら仕方がない。「味噌も糞も一緒」という慣用句を自分は好まない。味噌と糞は違うし、言葉や情緒に溺れることなく、その違いをハッキリ認識し、自らに言い聞かせるべきである。
上氏にはそれがあったことでオウムと縁が切れた。「剣は膂力」という持論を疑わぬ人間が、取って付けたようなことを言われても逆に不信感を抱くことはいろいろな部分やに存在する。「気のエネルギーで接触しなくても切れる」などの言葉は、「気のエネルギーがあれば将棋で相手を負かされる」と言ってるようなもの。こんなまやかしを信じる人間、信じない人間の差であろう。
自分が上氏でも、そんな世迷いごとをいうI君とはおさらばする。勧誘というのはとかくしつこいもので、こちらが曖昧な態度を見せたり、優柔不断であったりすると付け込まれる。バカな奴だと思ったた理由を告げずにおさらばすればよい。友達が自分にどう接してきても友達ではなく、無用と感じた時点で切るべきである。強い意志というより、当たり前のことだ。
「人に振り回されない」、「他人に自分を支配させない」、「己の信ずるままに、おもねず、なびかず」自身の信じる美と酔狂に殉じればよい。こういう生き方をすれば、人間の浅はかな行動がたちどころに見えてくる。人を見る目というのは、こうして身に着けていくものだろう。自分を信じるという自信は大事である。無知な自分ではあるが、他者妄信よりはましである。
権威や肩書に左右されたり、翻弄されることのない自分を作るためには、まずは非権威から始めるのがよい。権威があってもバカなことを言う人、無学・無教養の人でもいいこという人には耳を傾ける。そうしたリベラルな考えでいればそうそう迷うこともない。日本人の世間体感覚は、ともすれば他人から利用され易い。他人の目を気にして牢獄に這いつくばる必要はない。
他人を蔑むから、自分が蔑まれぬように躍起になる。だったら他人を蔑まないことから始めたらいい。自分が理解できなかったのは、「教育ママ」という種族であった。なぜあれほど受験勉強を強いるのか、なぜにバカと揶揄されながらも、教育ママは出現するのか。その理由がまったくわからない時期があった。今はそんなことは簡単明瞭に理解もし、説明できる。
ようするに、「教育ママ」とは理由ではないということ。そんなのはバカげた理屈であることくらい、彼女たちにとっては百も承知である。が、彼女たちはどんなに理屈がわかっていても、感情優先の女であるがゆえに教育ママになる。「蔑む」という感情を身に着け、「蔑まれない」ようにとの必死のあがきというしかない。男は感情を理性で食い止めるからこそ男である。
人を蔑むという感情は、理屈抜きで存在するがゆえに、理屈で分かっていてもどうすることもできない。それが、「女」という性の致命的な欠陥といえる。彼女たちは幼少時期のいつの時点で、「蔑む」学習をしたのだろうか?「傷つけてごめんなさい」という言葉を女性からしばしば発せられた。勝手に何かをいい、勝手に相手が傷ついたと思い、勝手に詫びる女の滑稽さである。
意地悪女が、意地悪をし、謝罪でいい子ぶるという図式。一人で何役も演じる女である。男も簡単に傷つくものと思っているようだが、女性にも、「いわゆる強者」と、「いわゆる弱者」がいて、その違いを説明するなら、女の涙にも強者の涙と、弱者の涙に分けられる。「いわゆる強者」の涙とは、悔しくて口惜しいから歯をくいしばって我慢をし、一人になって泣く女である。
それに比べて、「いわゆる弱者」の女性は、人目を憚らずワァーワァー泣くが、一人になるとケロっとしている。ニヤニヤうる女もいたりする。つまり、「いわゆる弱者」には意地や誇りなどがない。この世のすべてのものが、自分の役に立つか、生活に利用できるかと功利主義的に考える。だから、「いわゆる弱者」の女というのはしたたかで、本当は強い女である。