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オウムの麻原ら7名に死刑執行 ⑥

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麻原がはじめた、「オウムの会」(のちに「オウム神仙の会」)は、ヨガを愛好しチベット密教を学ぶ小さな修行サークルだった。それがわずか10年余りのうちに、国家転覆を画策するテロ組織に変貌した。オウムの当時の資産総額について謎もある。強制捜査で警察が押収した金品の数倍もの金を教団は持っていたとも言われるが、何百億円にものぼる大金はどこへ消えた?

麻原に洗脳され、麻原を師と仰ぎ、麻原の足の指まで舐めたインテリたちも、裁判の過程で目を覚ました者もいたというが、本当に麻原と決別したのか、フリをしたのか、彼らの心底は分からない。キリシタン弾圧の、「踏み絵」で敬虔な信者ほど踏んだと遠藤周作は描いている。そういう場面でキリストは間違いなく、「踏みなさい」と仰せになるだろうと遠藤はいう。

麻原は信者たちを、「アルタード・ステイツ・オブ・コンシャスネス(ASC=変性意識状態=日常的な意識状態以外の意識状態)」に持っていく催眠術師であり、幻覚を見る状態にさせて自身に心酔させることを可能にする。精神科医の片田珠美氏は「感覚遮断」、「飢餓」、「睡眠制限」、「性欲の制限」の4つのカギに集約される手法で、それを成し遂げていたと指摘する。

麻原は以下のような発言をする。「私たちは本質的に、7万2千本のナーディ(気道)から成っている。うち、むさぼりが2万4千本、怒り・愛着が2万4千本、無知・知恵が2万4千本、この3つのナーディの中には、苦しみの人となる命題が存在する。それはいじめられること、叩かれることでしか落とせない。これが圧力。また、徳によってエネルギーを満たす作業をサンダリーという。

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エクスタシーをもった熱を昇華と増加させることで、7万2千本のナーディは至福に満ち、新しい私と呼ばれる5つの身体が形成される。5つの身体は、この世で生きる変化身。心の世界の法身。心の世界に通じる啓上世界の報身。心の世界と啓上世界の両方を生きる金剛身、さらには本性身」(以下略)などと、このような何の根拠もない事実でもない言葉を彼は創りあげる。

まともに聞ける話ではないが、エリートたちはこの手の観念的な話の内容に心酔するのだろう。第三者には到底理解できない宗教用語を駆使し、自身と他者の間に煙幕を張っているようなものだろう。法事などで僧侶がなにやら難しい話をした際、何のことやら理解できなくとも、「有難い説法を戴いた」と遜ったりするが、理解できなくともインテリは難解な話を好む。

信者たちをACS到達に導く構成要因をさまざまに駆使した麻原について、「日本脱カルト協会」代表理事で、立正大学心理学部対人・社会心理学科教授の西田公昭氏は以下のような分析を行っている。「麻原はオウムを創設する前に、阿含宗など様々な宗教団体を渡り歩いた。新興宗教には解脱を説きながら、いざ修行しても何も起きないという空虚感がありがちです。

麻原は宗教渡り鳥の経験があるから、その果実を与える大事さを知っていたのでしょう。そのうえでハルマゲドンという世界最終戦争の到来を予言し、"時間がない。救済への道を急ごう。さもなければ、世界は崩壊する″と、不安を煽ったのです」。 いかにACSに導く技法レベルが高くとも、信者がファースト・コンタクトで拒絶反応を起こし、修行に入らなければ元も子もない。

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この点については前出の精神科医片田氏は以下のように解説する。「麻原は巧妙な催眠術的手法を用いています。彼は盲学校を卒業後、東大進学を目指したが挫折した。この時の屈辱感から、自己愛を傷つけられた人間がどんな心情に陥るかを体感的に分かっていた。一方、人間とは子どもの頃、サッカー選手やノーベル賞を獲るような科学者になりたいといった夢を描くもの。

普通は成長の過程で厳しい現実と折り合いをつけるのですが、オウムに入信した高学歴信者には、この『幼児的万能感』を諦められない人が多かった。医師であれば、救えない患者に出会う場面は必ず訪れ、そこで無力感に苛まれます。麻原はそういう悩みを抱えながら近づいてきた人たちが、どういう言葉をかけてもらえれば、救われるのかという洞察力に長けていた。

"君の能力はオウムにいてこそ役に立つ″などと持ち上げ、囁かれれば、『万能感幻想』が満たされます。それを求めて、彼らが自ら教祖を神格化した。麻原の対人操作能力に踊らされたのです」。要するに彼らは麻原におだてられて木に登ったブタといい方もできよう。自己の軌道を持たず、他人の口車に支配される人間は、少なからず先行き不安を抱えている。

もっとも、人間である以上不安を抱えない者などいない。しかし、言葉巧みに言い寄ってくる人間を信じる、信じないの違いは頭のよさというより、原体験の多さも重要である。人は何かを知っているようで何も知らない。そのことに謙虚であるべきだが、なまじエリートとして多少なり他人からちやほやされた人間は、「自分は頭がいい」という自負心がどこかにある。

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数学ができ、受験英語ができ、物理や化学ができて、テストの成績が良ければ周囲からも崇められ、自らも錯覚する。科目なんてのはすべて解答のある問題だから点数化できるのであって、本当の頭の良さというのは点数化できない、答えのない問題に答えを出していくこと。受験学力エリートというのは、クイズの答えを知っているのと何ら変わらない知識の量。

それプラス知識の記憶力。それを頭の良さと思う人はいるだろうが、原体験の希薄な人間の特徴は、根拠のない想像で物事を判断する危険性がある。勉強のできる秀才と、原体験をたくさん持った無学の老人とでは、比べ物にならないほど前者が頭でっかちである。「頭でっかち尻すぼみ」という慣用句があるが、これは別の慣用句、「竜頭蛇尾」と同じ意味。

「自分は竜だ。と思っていたが実態は蛇だった」ということだ。誰が考えた上手い言い方で、おそらくその手の人間を目の前にして思いついたのだろう。エリートというのは一瞬のものでもある。財務官僚たちが、つまらぬことで失脚するのを見ながら、彼らはいつまでエリートだったのかと考えさせられる。つまり、学歴エリートというのは、実態的に虚像なのかもしれない。

誰が彼らにエリートという虚像を植え付けたのか。エリートはエリートとして持ち上げられるからエリートである。有名人という言葉も似たようなもので、有名人とは有名であるから有名人であり、無名の有名人などいない。「かつての有名人はどこに行った?」というのとは意味が違う。有名人が有名人でなくなるのは、有名人を作り出した力がその人物を破壊していく。

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破壊されたエリートは本当にエリートだったのか、虚像に過ぎなかったのか。エリートを作り出した力によって自らが破壊されたと自分は見る。人間の肩書は案外と一過性のもの。自分は子を持って父という肩書と役割を得たが、子どもがすべて30歳を超えて独立すれば、不要な肩書は呼称として残るだけ。ただの呼称なら、「お父さん」以外の呼び方がむしろ面白いか…。

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