本日発売の週刊新潮によると、麻原彰晃の新たな殺人事件の記事が報告されている。教団の初期の事件であるといい、ある女性信者が麻原教祖に首を絞められて殺されていた――というもの。これまで全く表に出ていなかったが、この隠された殺人事件についての噂が広がったのは昨年の秋頃のことで、服役中の新実智光死刑囚が、麻原の余罪について告白していたという。
新実証言によれば、被害者は当時27歳だった教団の女性信者Yさん。金銭トラブルで麻原の部屋に呼び出され、「ポア」された。自分(新実)と中川智正が手足を押さえ、麻原が手を下した。部屋には故・村井秀夫、女性幹部、上祐史浩もいたという内容だ。これについて新潮の記者が上祐氏に問い合わせを試みるも、当初は“調べてみます”などと誤魔化すばかりだったという。
踏ん切りがついたのか上祐氏はようやく重い口を開き、女性信者殺害の現場に居合わせたと認めたうえで上祐氏は、「新実が取り押さえ、中川が注射器を用いて殺害した」と、新実証言とは異なる説明をする。「中川は彼女の左腕に注射した。しばらく後、中川はYさんの胸に耳を当て、“心臓が止まった”と言いました。麻原はその間、ソファーにずっと座っていました」。
上祐は、「ひかりの輪」を立ち上げたとき、オウムのことについてはすべて話といったが、知られたくないことには口をつぐんでいた。これを見ても信用できない人間だ。新実証言と上祐証言とどちらが正しいか、新実もいない今となっては問いただすこともできないが、教団初期に信者への殺人を命じる麻原に信者たちが批判を向けることはできなかったろう。
理性が働かないのをマインドコントロールというが、初期のころから人を殺すことに慣らされてしまったのだろう。自分の目の前で人が人を殺す場面など見たこともないが、恐ろしいことであってもそれを見せられた人間は、多少なりそのことに免疫ができるのだろうか。死刑のボタンを押す刑務官は、それが仕事であっても5人が同時にボタンを押すという配慮がなされている。
人が人を殺すという恐ろしいことを麻原は幹部の信徒たちに慣らしていったのだろう。オウム真理教は宗教であり、かつ犯罪集団であった。宗教がある段階から犯罪集団になったのではない。最初から犯罪集団であって、宗教の形をして信者を集めたに過ぎない。最者から犯罪集団として人を集めるのはヤクザである。しかし、やってることはヤクザどころではない。
宗教と社会の関係において、日本の歴史の中で宗教を警戒したのは、江戸幕府のキリスト教くらいではなかったか。秀吉はキリスト教を禁止したが、家康は宗教には比較的寛容だった。自身は浄土宗だったが家臣の大半は一向宗徒、忠臣の大久保忠孝は日蓮宗だった。キリスト教を容認していた家康が急に、「禁教」に踏み切ったのは、「岡本大八事件」が契機と言われている。
本多正純の家臣岡本大八が有馬晴信から賄賂を騙しとり、それが露見して処罰が免れない状況になった大八は、自分を訴えた晴信が、「長崎奉行暗殺」を企てていることを獄中から曝露した。大八は火炙りに、晴信は斬罪となるが、二人がともにキリシタン大名であったことから、キリスト教を邪教と思ったようだ。遺言があったのか、迫害が始まったのは家康が死後のこと。
近代日本にあっては、政治は恐れるが宗教を恐れる傾向がない。ゆえにか、信教の自由とか、政教分離の考え方は国家から宗教を守るものであったが、オウム真理教の出現でわれわれは違う次元の問題に気づかされた。オウムは反国家、反家族であったが、宗教とはそうしたもので、昔からそうであった。マインドコントロールという言葉も流行ったが、これは洗脳のこと。
いかに秀才たちが麻原にマインドコントロールされたからといっても、エリートたちにはマインドコントロールされたことの人格的責任がある。男に騙された女も、女に騙された男も、監督に操られた選手にしても、自己の責任があるのは疑いない。自己の責任はないと思う者はいようし、あっても責任を逃れたい人間もいよう。だから苦しい言い訳や自己弁護をする。
遅刻の言い訳一つとっても、人間は愚かな生き物だと思ってしまう。すべての言い訳は醜いと決めている自分だが、人に言うと「カッコいい」と言われたことがあった。まあ、茶化し言葉だろうが、「カッコいいと思うならお前もやれよ」といったこともある。今回の新たな信者殺害事件についても、上祐氏は、「今日まで恐怖と不安で言えなかった」と見苦しい言い訳をした。
これは言わなかった(隠していた)ことの言い訳でなく、露呈したことの言い訳であろう。言わなかった理由は、「言いたくなかった」以外の何がある?「言いたくなかった」は、隠しておきたかったである。これはもう殺人の共犯であるのは疑いのない事実。「恐怖とはそれか?」時効があることくらいは分かる脳ミソはあろうが、上祐という男も案外いいこぶりっこだ。
こういう言い訳など10や20でも言える。つまらん嘘より一つの真実で済むものを…。遅刻の言い訳なども苦労して考えることもない、「寝坊しました」で済む。薄っぺらなつまらん言い訳する男を自分は好まない。美能幸三の、「つまらん」は、「馬鹿」と言い換えられるといったように、つまらん言い訳も、つまらん男も、「馬鹿」ということなら、二字節約できる。
オウムは最初から犯罪集団といったが、目の前で女性信者が殺害されて(麻原が命じたなら)殺人を犯したことになる。麻原の手下となった幹部はどういう了見だったのか?社会に出ていきなりは下っ端でも、オウムなら役職を与えられた幹部。こういうおママゴトにうつつを抜かしていたのか?人間は地道な努力をするようになっている。こんなイカレタ団体は二度と出て欲しくない。
一つことに集中するといっても、学者タイプではないが、この際徹底したオウムづくしでやってみよう。根ほり葉ほりでも書き足らないものだが、どちらかといえばこのブログは考えるためにやっている。小学生頃の絵日記は、「今日は雨がふったのでどこにも行けず、楽しくなかったです。」、「今日は海に泳ぎに行ったので楽しかったです。」というものばかりだが懐かしい。
あったことよりそれについての思いや意見を書くのが大人で、そういう類の他人の日記なら意見も聞けるから読み甲斐もある。あったことを記録しておくのもその人の日常で否定はないが、考えるために書くのなら物足りない。以前、「趣味は思考」と言った自分は、ありきたりの趣味が嫌だから、半分ジョークも交えた言い方だが、考えることで世界が広がり、世界は広い方が面白い。