地元・岡山県の名門高校から京都府立医科大学へ進学。在学中は柔道部で活躍をし、5年生の時は学園祭の実行委員長を務めた。車いすのボランティア活動を6年間続け、学園祭では車いすを押して会場を回ったという。正義感が強く、心優しい青年――そう評価する声も少なくない中川智正である。オウムとの出合いは、医師国家試験を間近に控えた6年生の冬だった。
冷やかし気分でオウムの道場を訪ねたとき、早川紀代秀に瞑想を勧められた。やってみると光が体を通り抜け、あたりが真っ白になるような神秘体験をした。中川はその日からオウム道場に通うようになる。「道場に行かんと体に力が入らん」と周囲に語り、卒業後は道場に通いながら大阪鉄道病院に研修医として勤務するも現場に適合できず、1年余りで退職する。
「人のために尽くしたい」と、出家してオウム真理教付属病院の顧問となる。出家の約2カ月後、坂本弁護士一家殺害事件実行役に選ばれる。弁護士の寝室に入り、他の実行役が夫妻を攻撃するのをしばらく見ていると、幼児が泣き始めた。「子どもをなんとかしろ」という己の内なる声が聞こえ、タオルケットで口のあたりを押さえると幼児の泣き声はやみ、動かなくなった。
さらには隣で手間取っていた村井秀夫に代わり、夫人の首を絞めた――。公判での供述によれば、人を殺めたにもかかわらず、「息が聞こえるくらいの近さに麻原氏がいるという一体感を感じて嬉しかった」と述べていた。事件後、麻原の主治医となるも、教団が犯したほとんどの凶悪事件にかかわった。起訴された事件は、麻原の13件に次ぐ11件、死者は26人にのぼった。
公判ではほとんどの信徒が、麻原の指示に抵抗を感じても服従するしかなかったと語る中、中川だけは、「積極的に加担した」と認めている。事件に関与するたび、「神秘体験」をしたと繰り返し主張している。当初は麻原を、「尊師」と呼んでいたが、「正確な証言をするのに、言葉に引きずられたくない」との理由で途中からは、「麻原氏」と呼ぶようになった。
麻原の裁判に証人として出廷した際は、「サリンを作ったり、サリンをばらまいたり、人の首を絞めて殺したりするために出家したんじゃない」と正論を述べ、証言台に突っ伏し泣き崩れる一方で、「麻原氏のせいという気持ちはない。教祖である麻原氏がいなければ事件はなかったが、私たちがいなければやはり事件はなかった」という論法で、自己の責任を男らしく認めた。
最高裁の判決前には、「どうして事件が起こったのか、明らかになっていない」とコメントを出した中川の言葉を聞いた時、エリートはある意味中卒程度のバカと感じた。『仁義なき戦い』の獄中手記を書いた美能幸三は、「つまらん連中が上に立ったから下の者が苦労し、流血を重ねた」と自己完結をしている。「つまらん連中」を率直にいえば、「馬鹿な連中」であろう。
「自軍の将が馬鹿だと敵軍より恐い」などといわれるように、中学を2年で退学した美能幸三に理解できて、中川に理解できぬはずがない。そこがヤクザの親分と絶対的宗教教祖の違いなのか。子どものころから利発で、「神童」と呼ばれていた中川を弁護した河原弁護士は、「人を殺すような性格ではなく、とても温厚だった。宗教のせいで誤った道をたどってしまった」と残念がる。
「稀代のペテン師である麻原というバカに気づかなかった」という現実認識ができないところに宗教の怖さがある。どれほどの秀才であれ、バカを正しくバカと判断することこそ頭の良さではないか。「敵を知ると同時に、己を知らねばならない」と孫子もいっている。多くのエリートたちが麻原に心酔した理由を、「ヒーロー不在感」と解釈した判断は、当たらずとも遠からず。
プライドの高い彼らの求めるヒーロー像は、勤務先の上司でも経営者や社長でもなかった。エリート意識に長じた人間の最大の短所は、他人と自分との比較でしか、自己を認識ができないところにあって、これが競争社会に埋没する人間の相対的原理となる。偏差値世代の悲哀と言い方もなされるが、他人の優劣を偏差値や出身校で即断するよう、彼らは作られてしまった。
こうした高いプライド所有者は存在感も居場所もない一般社会では、我慢がなされず不満が露出する。「なんであんなバカに自分は命じられねばならない?」なら勤務は難しい。オカルトや神秘体験に関心を抱く彼らが、不満でしかない勤務先の雑多な人間関係を、「原始仏教」の麻原彰晃に帰依し解放された。彼らは狭い世界の中でしか生きられない人間だったろう。
今回改めて死刑執行された6人の信徒たちの経歴や人となりを眺めてみたが、事件に関連する何かは想像するしかない。バカな教祖の神輿を担いだバカな男たちと詰ってみても、真相は彼らの心の奥にある。当ブログで声高にいうのは、「他人に自分の心を支配させるな」であるが、信者や信徒というのは、信じる者たちの総称だ。人を信じたところで自己責任は免れない。
人を操るのが巧みな麻原は、人材派遣会社経営が似合っている。信徒たちも人材派遣の出向なら、プライドを傷つけられたら行かねばよい。自尊心も大事だが、自尊心の高さも時に災いする。自尊心より大事なのは向学心であろう。「私は地道に、学歴もなく、独学でやってきた。座右の銘というのではないが、『我以外皆師なり』と思っている」と吉川英治の言葉がある。
有名進学校の優秀生徒は、学校や塾で王様のような扱いを受ける。彼らは宣伝マンでもあるからだ。エリートというのは自意識なのか肩書なのか、どちらでもないのがいい。なぜなら、自己の向上をどこかの時点で止めて眺めると、向上が止まってしまう。職業にも企業にも貴賤はないが、あると思う人にはあるのだろう。どんな仕事であれ、その仕事になりきっている人は幸せである。
人の死には死刑もあるのだとと、今回の7人同時死刑に考えさせられた。確かにこれも人の死である。麻原彰晃を唯一落としたとされる宇井稔検事は2015年他界したが、取り調べ時の麻原の素顔が宇井検事のインタビューに残っている。「坂本さんの事件については自分が指示をしたって調書があるんだよ。自供したわけ。でも、あとは全部弟子の責任だって言っていたな。
『自分は目が見えないからできないんだ』と繰り返してな…。これを端緒に全部語るって思ったんだ」。麻原の心は揺れていた。「麻原は本当のことを語らないといわれたけど、あと一歩で語ろうとした瞬間もあるんだよ」。そんな思いをもって取り調べにあたった。が、松本死刑囚は一転して話したことは間違いだったと言い、事件について一切口を閉ざしたという。
「麻原はおしゃべりだったよ。事件のこと以外はよく話したよ。壁抜けられるって言うから、『どれ、抜けてみろよ』って言ったんだ。そしたら抜けられなくて申し訳ないって。ずっと座禅しているから、何しているんだって聞いたら『修行』だとかなんとか言ってたよ」。意味のわからない発言を繰り返したり、裁判を拒んでいた松本死刑囚とは違う顔が見えてくる。
「こんなくだらん裁判はやらんでいい」。「ここは裁判所なんかじゃない、劇場だ」。「退廷させて死刑場につれていくのはOKだ」。「射殺したければ射殺すればいい」。「こんなばかな茶番劇のような裁判はやっても仕方ない」。「私はあなた方が裁くことはできない」などと言い放った麻原も、信徒たちの告発を受けた2002年2月25日の公判以降は、まったく応答しなくなった。
「間違いないのは麻原は死刑を恐れていたよ。死刑が怖かったんだ。自分が死刑になるかもしれないから、あとは弟子のせいにしようって思ったんだろうな」。宇井検事は結んでいる。宇井さんは他界し、麻原の死刑も執行された。最後まで口を閉ざし続けた麻原。彼の頭の中に来世は存在したのか?「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」が真なら、往生はしただろう。