坂本弁護士殺害実行部隊は、岡崎一明・村井秀夫・新実智光・早川紀代秀・中川智正・端本悟ら6人で、11月4日午前3時頃弁護士宅に侵入、就寝中の一家を襲った。端本が坂本弁護士に馬乗りになり、顎を6、7回殴った後に岡崎が首を、早川が足を押さえ、中川が尻に塩化カリウムを打った。筋肉注射ゆえに効果が無く、2、3回やり直したが針が曲がったので窒息死させた。
坂本の妻は新実に馬乗りされ、上半身を蹴る・殴るなどの暴行を受け、端本に腹を蹴り飛ばされて膝落としをされた後に村井、早川、中川に首を絞められる。中川からは塩化カリウム注射をされた。「子どもだけは…」と命乞いをしたり、村井の指を噛んだりなどの抵抗したが窒息死した。一歳の長男が泣き出したため、中川と新実が鼻口を押さえつけて窒息死させた。
早川に子どもの殺害を命じた麻原は、この時の心境を以下検事調書に述べている。「私は一瞬、子どものことが頭に浮かびましたが、私も小さいときから親から離れて苦労しており、子どもだけ生き残らせても逆に残酷だと思い殺害を許可した」と、子どもへの慈悲を表しているが、このようなとって付けた言い訳を誰が信じる者がいようか?少なくとも自分は信じない。
これまでいろいろ言われたことでもあるが、秀才・エリートの彼らはなぜ麻原彰晃の元に集まったかについて、公判の中で彼らが直に口にした言葉がある。細菌兵器研究した遠藤誠一は、京大大学院医学研究科博士課程中退である。ボツリヌス菌や炭疽菌など細菌兵器を研究し、サリンの製造において中心的役割を果たした遠藤は、麻原の四女の“許嫁”としても知られる。
四女は遠藤を、「とても子どもっぽい人だった」と述べている。裁判当初は、「包み隠さず、すべてをあらわにしたい」と語っていた遠藤だが、他の被告が彼に都合の悪い証言をすると、「作り話だ」などと言い立て、「サリンで人は死なないと思っていた」などと自己弁護に終始した。オウムの裏を仕切った、「側近中の側近」の井上嘉浩は、日本文化大中退である。
中学まではサッカー好きの活発な少年で、高校は京都市内の進学校へ進んだ。両親の期待は大きかったが、同級生も親も気づかないうちにオウム真理教に出会い、高校2年のときに入信した。両親の説得に加えて麻原が、「大学に行きなさい」と諭したことで、いったんは大学に進学したが、半年もたたずに退学して出家した。当初は心配していた母も後にオウムに入信している。
「(教団内の高学歴エリートに対して)屈折した心が当時の自分にあった」と井上は述べている。教団の中で最も血なまぐさい男とされた新実智光は、愛知県岡崎市に生まれ、愛知学院大法学部を卒業した。オウム真理教が起こした7件の殺人事件のすべてにかかわった新実は、計26人を殺害したとして殺人などの罪に問われた。この人数は麻原彰晃の27人に次ぐ多さである。
大学卒業前の1986年、オカルト雑誌に掲載されていた麻原の空中浮揚写真を見てオウムに関心を抱く。教団の機関誌ではこの時のことを、「修行をしながら自らを高める姿勢にひかれた」と振り返っている。オウムの前身、「オウム神仙の会」のセミナーに参加し、修行に取り組むと体が浮き上がって光が見えた。「もう、一生ついていくしかない」と確信したという。
大学を卒業後、地元の食品会社に就職したが、半年で退社して本格的にオウムにのめり込んでいく。公判では、「グル(麻原)の指示なら、人を殺すことに喜びを感ずるようでなければならない」、「一殺多生。(被告人は)最大多数の幸福のためのやむを得ぬ犠牲である」と述べたりもしたが、新実の裁判に検察側証人として出廷した井上嘉浩死刑囚には心を見透かされている。
「新実さんも本当は(誤りに)気づいているのに、見ていて悲しい」。また、新実の部下で地下鉄サリン事件の運転手役を務めた杉本繁郎受刑者も、「教団を否定するのがつらいのではないか」と心中を推し量る。死刑が確定後、被害者への謝罪と反省の言葉が全く聞かれなかったのは、新実智光に対する、「マインドコントロール」が最後まで解けなかったことを示す。
早川紀代秀は麻原よりも6歳年長の1949年、兵庫県川辺郡東谷村(現在の川西市)に生まれた。団塊の世代で、大阪府堺市で地方公務員の一人息子として育った彼は、神戸大学農学部時代はバイオ技術を学び、大阪府立大大学院農学研究科に進学し、緑地計画工学を専攻した。大学院卒業後は大手ゼネコンに就職し、土木技術部開発設計課に勤務したが5年後に退職した。
退職後は2社に勤務し、84年に阿含宗に入信、86年にオウムに入信した。きっかけは麻原の著書を読んだことだった。翌87年には全財産を寄付して出家し、若者が多い教団内では、「おやじ」と呼ばれていた。教団内ではゼネコンでの勤務経験を生かし、土地買収などの先頭に立つ。「尊師が『やれ』と言われたことをやる」との姿勢で、「建設」に関わるすべてを仕切った。
裁判当初は麻原への帰依を捨てきれず、被告人質問では、「今も麻原被告を信じている。ポアはご本人のためになる」と述べた。坂本弁護士事件の実行中、麻原に弁護士外の家族の処置を仰いだ早川であるが、犯行後に当時1歳2カ月だった長男龍彦ちゃんの遺体に布団をかけた理由を聞かれ、「寒そうだったから」と悲鳴に近い声を上げ、1分近く証言台に突っ伏した。
かたくなだった態度は審理が進むにつれて変化していく。一審の終盤には、「自分たちのしてきたことは地獄をつくり出しただけ」と認め、「今なお私が人間として存在していることに対し、申し訳無さと恥ずかしい気持ちでいっぱいです」と謝罪した。最年長者であった早川は、公判の過程で老成していったのか。一審死刑、控訴審でも判決は覆らず、死刑が確定した。
1965年生まれの土谷正実は、サリンを製造した「狂気」の化学者である。筑波大大学院化学研究科中退であるが、都立高校卒業後、筑波大学農林学類に入学した。化学に興味を持ち、88年に同大大学院へ進学して、有機物理化学を専攻。「非常に研究熱心」だったという。オウムとの出会いは大学院2年の時に同乗していた車の交通事故がきっかけで、彼はむち打ち症になった。
その際、知人に誘われて水戸市内にあったオウムのヨガ道場に通うようになった。周囲には、「オウムには大学以上の設備がある。1日に20時間以上も研究できる」と嬉しそうに話していたという。修士論文は提出したが、研究室からは足が遠のきオウムにのめり込んでいく。1日1度しか食事を摂らず、朝から晩までアルバイトをして、収入のすべては教団に布施をした。
両親は脱会するよう再三説得し、茨城県内の更生施設へも入れたが、すきを見て抜け出し、91年に出家した。「サリンというものがあります。作ってみませんか」。土谷は麻原に提案した。「やってみろ」と言われて製造を始め、サリンの合成に成功する。94年から95年にかけての松本・地下鉄サリン事件で使われたサリン、信徒襲撃事件で使われたVXは土谷が製造した。
公判では、「(麻原への)帰依を貫徹し、死ぬことが天命と考えます」と表明、遠藤や村井に命じられるままサリンを作っただけで、「使途は知らなかった」と無罪を主張。検察官に、「何言ってんだ、バーカ」、「お前が死刑を求刑するのかよ」などの不規則発言も目立った。最高裁では麻原への信仰がなくなったと強調したが、死刑回避の保身も遅きに失し死刑が確定した。