書き留めている訳ではないが、一日に数回思い浮かべることがある。考えるというより、状況を思い描いてあれこれ想像する。それは、「死んだら面白くないのだろうか?」という自問であり、それに対する考えは日々によって違う。普通、「死んだらどうなるのだろう?」などと考えるようだが、自分はそうは考えない。なぜなら、死んでいくところなどないからだ。
死ぬということは、今の世の中から消えるということで、だから、誰にも会えない、語れない、好きな音楽も聴けない、スポーツ中継に一喜一憂もできない。美味いものも食べれない、将棋も指せない、運動もできないなどなど…。だから、死んだら面白くない、つまらないような気もするが、死ねば意識もないわけだから、「楽しくない」という感情すらないではないか?
それらを突き詰めると、死ぬのは怖いというより、やはりつまらないという気持ちになる。「つまらない」という気持ちは意識(実感)はないが、何もできない状況こそがつまらないのである。しかし、それが死というものだ。受け入れるしかなかろう。誰もが受け入れて死んだように、人並みに受け入れなければならない。生きていたい、世の中を意識として感じていたい。
見回していたい、親族の声も聴きながら動向を見つめていたいが、死はそれができない。やはり、人間にとって死が一番つまらないこと。避けては通れないこと、誰にも起こることなので不平等ということでもない。もっとも、寿命年数が人によってまちまちなのは不平等という気もなくはない。どうしてそうなるのかを問うが、人の死ぬ時期が同じであるはずがない。
探れば科学的論拠はあるのだろう。単純にいえば、成長の終焉こそが死で、それを老化という。いつ訪れるやも分からぬ死を、座して待たねばならない我々である。誰も死期の予測はできない。このようなことを、最低でも一日に一度は考える。それがまた、「生」の執着につながっているのかもしれない。とはいいつつ、何をやっておく、やっておけば、というものは沸いて来ない。
自然界の仕組み、世の習わしとはいえ、人や動物や植物が生まれては死んでいくのは、なんとも不思議なことである。自分も彼も彼女もあなたも同じ一員であり、もはや一員として生を全うした人もいれば、新たな命を授かる人もいるわけだ。この不思議な仕組みの中、残りの幾ばくもない日々をどう生きるかについて思考を巡らすも、特別な何かをしないという不思議。
志を持って美的に生きるということもない。あるがままを受け入れて、惰性気味に生きるのが人間なのかと、そういう結論に終始する命題である。酔狂に生きてみるかと啓発をすれど、人と同じことを好まぬ自分は、これまで酔狂に生きてきたような気もしないではない。故にか一念発起ということもない。が、もっぱら運命の不平等には立ち向かっているようである。
人に運命が定められているなら、運命は間違いなく不平等である。そうした不平等に立ち向かうことが運命を否定することになる。定められていてもいなくても、運命に対する挑戦姿勢は変わらない。「格差社会」という文字がしばし踊る昨今の時世だが、富裕家庭に生まれる人、貧困家庭に生まれる人は運命なのか?思いたいならそれでもいいがこれは自然摂理である。
親を選べないのも、国や民族や地域を選べないと同じことで、いちいち運命といいたがる人もいるが、ならば何でも運命となるなら運命という言葉は不要である。しかし、運命は社会システムの不備といっていいこともある。社会が整備されていると、(あるとされる)運命すら変わることも沢山あるが、自分の頭に今浮かぶのは、児相の不備で命を落とした少女のこと。
抜かりのない社会整備は不可能かもしれぬが、足りないところは点検し、周知徹底するのも行政の仕事である。幼い命が失われずに済むならそうすべきである。国家の命により戦場に命を捧げた若き兵士は、それ以外に生きるすべはなく、これを運命とするなら、それすら社会の不備である。二十世紀は戦争の世紀といわれたが、これも世界が整備されていなかったからだ。
世界の変貌は人智の予測を超えたものだったかもしれぬが、「どうせ我々は死ぬのだから」とはいえど、後の世を整備しておくのも人間の叡智であろう。それくらいに人類は先の世紀の多大なる罪を犯している。少年法も児相も児童養護施設や老人福祉施設も国民生活向上のための社会施設である。多くの身寄りのない子どもや年寄りがそうした施設で暮らしている。
ネガティブ運命論者の言い分は、「そこで暮らす運命だった」などと、何事も運命としなければ気が済まない自分はそうは考えない。児童養護施設も老人福祉施設も、彼らにとっては救いであったという理解である。なぜなら、これらは彼らの運命を変更させたポジティブシンキング。と、人間はいろいろ考えるものだが、実る思考もあれば実らぬ思考もあっていい。
大切なことは知識の量ではなく、「知っていること」より、「意見がいえること」。人が知らないことは多く、あることを知らない場合、「そんなことも知らないのか?」と、やや見下され気味にいう人間ほどマヌケに見える。なぜって、知らないことは何ら恥でもない。諸外国では、ある事件についての情報を知ることより、それについて意見がいえるかである。
羞恥の文化に生きる日本人は、「知らないことは言わない方がよい」、「下手に何かをいうと笑われる」などの人が多い。恥ずかしがり屋ともいえるが、同時に見栄っ張りという見方もできる。知らないことを堂々と知らないといえることこそ自信である。偉そうな物言いするやつに、「ああそのことね。自分はそれを知らない絶対的な自信がある」といったことがある。
「それって自信なの?」、「自信だろう。知ったかぶりをするより、絶対に知らないというのは自信だよ」と、煙に巻くのは楽しい。知ってることを得意気にいう人間もいるし、悪気のないやつもいる。「さも知ってます~」という言い方には、「謙虚」という配慮がない。「『知るものは言わず、言うものは知らず』という言葉をお前に贈るよ」と、ある奴に言った。
決して嫌味ではなく彼を気づかって言った。それを彼がどう受け止めたかは自分の範疇ではない。言葉は口から出た後は相手のものである。見方によれば、「トゲ」のある物言いで、今はそうしたすべてがお節介と思うようになった。人は自らに責任を持って生きる。「彼のために言ってやらねば彼は人から嫌われる」と、これは正義感でも友達思いでも何でもない。
自分の正義は他人は悪意に感じるかも知れぬがそれを、「悪意にとるのが問題であり、自分は善意である」を長いこと信奉したが、結局、相手が善意に受け取らないことを嘆く。あるいは立腹するなら、どこが善意なのか。それが分かってくると、善意の押し付けをする以上、一切は自己が責任を負うべし。そういった過渡期を経て、辿り着いた境地は、「沈黙は金」。
今になれば簡単な論理と理解するが、「善意とは相手を思う心」というのは間違いないが、それを受け入れる相手にキャパがなければ暴言と変わりない。理想の夫婦のように、相手の心と自分が表裏のように一体化したような関係ならともかく、善意は通じないものと判断することに随分と時間がかかった。「良薬口に苦し」というが、そうそう他人の良薬になどなれない。