自殺の名所に立て札が置いてある。「死んで花実が咲くものか」、その意味は分かろう。「死んではもともこもない」、「何の意味もない」ということだが、「花実」とはそのまま、「花」と「実」である。「花」を咲かせる、「実」をつけるとは出世を表す言葉で、古くは『日本書紀』にも出てくるが、対義として、「死に花を咲かせる」、「死んで花を咲かせよう」という言葉も生まれた。
①立派な死に方をして、死語に名を残すこと。②死ぬことでかえって、ほまれが増す、との意味だが、こじつけ、当てつけ言葉でしかない。「死の美学」や「滅びの美学」を信奉するものにとっては美しく、感銘を与える言葉になる。例えば三島由紀夫、あるいは西部邁。彼らは、「死の美学」を持ち、実際にその体現者として生涯を終え、「口先三寸」の輩ではなかった。
太宰も芥川も自殺したが、彼ら自身の言葉にも、評論家においても、「死の美学」という言葉の納得のゆく解説はない。「死の美学」というのは所詮は美意識に対する理屈であるが、「生の美学」、「生きる美学」は理屈にすらならない。人間は理屈で生きるものでもない。「生き甲斐」というのは、人間を内側から支えるものであって、「生き甲斐」というのも理屈ではない。
「そこに山があるからだ」といった山登りがいた。彼の言い分は、「山登りは理屈ではない」という言葉の現れである。我々は理屈で考えるから、「なぜ、山に登るのか?」などと問うが、彼らにとって山登りは理屈ではなく生き甲斐である。生き甲斐であるからこそ、苦労して山に登ろうとする。人間の意識下にあるものは、善や悪や、正か不正かよりも不合理なものである。
生き甲斐のない人にとって、不合理な生き方は理屈で考えるしか理解はできない。それを思うと生き甲斐というのは、何をも超越したものでもある。同じように、死のうとする人間に、どんな理屈が通じるだろうか?生を肯定するための一切の説教、一切の理屈すべてが、「うっさい」となる。が、こういう話は聞いたことがある。自殺を思いとどまったという理由である。
ある男が自殺をしようと断罪絶壁の岬にたたずんでいたところ、沈み行く太陽の輝きのあまりの美しさに死ぬのを止めた。沈む太陽の美しさに自分を掛け合わせたとはいっていないし、単に美しい光景に生の希望を見出したのかもしれないし、いずれにしても、自殺をとどめた理由は理屈ではない。様々なところで人は死ぬが、そこに何かを求めているように思う。
人間が何かをこの世に求めているのは間違いないが、場所を求めたりや、どこかに飛び込む場合にキチンと履物を整える行為も、この世に求める何かであろう。何も求めないから死ぬというのは、おそらくないように思う。生きることにおいてもそのことは言える。生きる意味はない、生きる目的も、生きる理由もない。と言いながら生きる人間にも、無意識に求めるものはあるはずだ。
人間は理屈で生きられない以上、生きてるという実感において生きている。「死んで花実が咲くものか」という人は自らの意思で死ぬことはないが、「死んで花実を咲かせよう」という理屈を持で死を美化すれば、死ぬことも可能である。三島は熟年の45歳、西部の78歳は初老といっていいのか?男子の平均寿命が80歳であるからして、78歳は晩老といえる年齢であろう。
三島の自決は語り尽くされているが、西部の死は、「自裁死」と評されている。西部自身の言葉ではないが、生前に彼が周囲に漏らした、「死ぬときは自分の意思で死ぬ意向があることからメディアが、「自裁死」の表現をつかった。「自ら死ぬ」という意味においては、「自害」や、「自決」と同じであるが、それらの言葉がそぐわないこともあっての、「自裁死」という表現。
西部の死は、自己救済追及の果ての死であった。誰に迷惑をかけず、手も借りぬに死ぬ方はあったと思われるが、西部を慕う私淑の二名が、自殺幇助で逮捕されている。「西部先生の死生観を尊重して力になりたかった」などと供述しているが、「死の美学」といっても、老いて病める老人性鬱状態の西部と、ナルシズム的自決の三島とでは、「美学」の意味は違っている。
「死んで花実を咲かせた」のはいずれであろう。「もったいない死に方」(川端康成)、「三島さんは本気だったのか」(開高健)、「彼がロックに興味があったなら…」(五木寛之)、「常軌を逸した行動」(中曽根康弘)、「気が狂ったとしか思えない」(佐藤栄作)。結局彼らの結末はああであった。もし、彼らの死を他者が、「恥」というなら、他者にとっての、「恥」であろう。
「欲望はつねに他者の欲望である」と、精神科医のジャック・ラカンが言ったように…。だれか他人が、「あれがいい」、「これがいい」と言うものだから、いつのまにかそれが良いものに見えてきて、自分にとっても欲望の対象となっているということはままある。ある対象について、「それは恥だ」、「バカだ」、「狂っている」と人がいえば自らもそうなるという。
一握りの反抗人間もいるだろうが、反抗も同意も同じ臭気がする。真性なのは何にもよっかからないで自らが下す思考である。情報化社会の只中にあっては、他に影響されないということ自体が難しいこと。自分も古語や名言に影響を受けており、頻繁に引用もするが、すべては肥しと思えば滋養にでき、あとは知識をお荷物とせぬよう、「知行合一」を念頭に置く。
我らが先輩に、「焼け跡派」といわれる世代があった。幼少期と少年期を第二次世界大戦中に過ごした世代で、野坂昭如、小田実、大島渚、五木寛之、小沢昭一、石原慎太郎らが浮かぶが、この中では野坂を気に入った。朴訥で非常にシャイでメディアに出初めのころはいつも黒いサングラスをかけていたのは対人恐怖であったからで、「恥ずかしい」が彼の口癖だった。
野坂が逝ってはや三年半。司会者として彼らを束ねていたジャーナリストの田原総一郎は、野坂の死に際してこんな言葉を寄せている。「日本は空気を読まないと生きていけない国。野坂昭如さんは自ら落ちこぼれ、空気を読めないと言い切ることで自由に生きた」。「空気を読めない」は真実ではない。野坂は空気を読まない加害者より、「読めない」被害者面を好む人だった。
朴訥なる自己主張ゆえに敵も牙を剥いては来ず、面倒な応戦をする必要もなかったようだ。「和して」という平和主義者ではないが、決して喧騒は好まなかった。小田や大島のような大声や金切り声を上げることもなかった。浜ちゃんやまっちゃんが怒らせようとケシかけても、笑って応対していた。声を荒げて見境なく怒るのは野坂の意に反することと推察する。