「心の弱さ」はどこに起因するかを考えると、「過保護」の子育てに突き当たる。温室で育った植物は希少で価値も高いが雑草の強さがない。エリートが雑菌に弱いのも同じ理由だし、人をいじめる奴らは雑菌である。「あんなバカなやつらに、自分の命を差し出すなんか冗談じゃない」という意識はどうすれば芽生える?まずは、親が子どもを温室育ちにしないことだろう。
「老いと死」のテーマが、若者や少年や少女の死に拡散する。「老い」を外せば、人間の死は様々ある。鹿児島の知覧に行ったとき、若き特攻兵士に思いを寄せ、若者たちの未来を奪った国の指導者に怒りが沸いたが、国家が死を命じないのに命を捨てる少年・少女たちを何とかできないものかとの思いが募る。遺書にある、「生きたいけどもうダメです」というのは甘えである。
本当に生きたいなら生きられるはず…。この子たちの心のどこかには死への憧れがあるのか?死後の世界を賛美するようなテレビのスピリチュアル番組が禁止となった。自殺の動機は自殺者にしか分からない。太宰や芥川や三島や川端の自殺についても多くの人があれこれ推測するしかない。坂口安吾は、『太宰治情死考』なる表題で以下のような辛辣な指摘をした。
「太宰の自殺は、自殺というより、芸道人の身もだえの一様相であり、ジコーサマ入門と同じような体をナサザルアガキであったと思えばマチガイなかろう。こういう悪アガキはそっとしておいて、いたわって、静かに休ませてやるがいい。芸道は常時において戦争だから、平チャラな顔をしていても、意味もない女と情死し、世の終わりに至るまで、生き方死に方をなさなくなる。
こんなことは、問題とするに足りない。作品がすべてである」。ジコーサマとは、当時の信仰宗教の女性教祖(璽光尊)のこと。璽光尊こと長岡良子は、1903年(明治36年)、岡山県御津郡江与味村に農家の娘として誕生した。小学校卒業後、看護婦をしていたが、1945年6月25日、神からのお告げがあったとして自らを「璽光尊」と名乗り、璽光尊の住まいを「璽宇皇居」と称した。
普段は、「璽宇皇居」にこもってめったに姿を現さないが、天変地異の到来を吹聴して終戦直後の人々の不安を煽り、世直しをうたって信者を集めていた。力士の双葉山定次や、囲碁棋士の呉清源らも入信した。双葉山は1947年1月の「璽光尊事件」の際、体を張って教祖を守り、公務執行妨害で逮捕される。釈放後は、「夢から醒めた気持ちだ」と言葉を残して教団を離れた。
世情が不安定な混乱期にはさまざまなものが出没するが、自己妄想的な思い込みとペテン師的資質を有する者が新興宗教を興すようで、宗教が個人の信仰の次元から国家の枠を揺さぶるというのが、新しい文明の形であるかのような肥大した新興宗教も存在する。憲法に保障される信教の自由が「オウム真理教」を生んだとき、麻原を擁護した文化人に吉本隆明がいる。
吉本は新聞紙上で麻原彰晃について、「存在を重く評価」、「マスコミが否定できるほどちゃちな人ではない」、「現存する仏教系修行者の中でも世界有数の人物」と述べている。オウム事件が公になった際に吉本は、「彼の犯罪は根底的に否定する」と、思想と犯罪は別という言い方である。彼個人が思想家麻原を評価し、教義内容に関心を持つのは自由である。
が、それらを公表する文化人としての責任はあろう。オウムがテロリスト集団であることが明らかになってすら、「麻原には不明なところがたくさんある」と留保したものの、新聞紙上における吉本自身のオウム真理教への関心の示し方は、宗教家としての麻原への肯定、評価、礼賛に変わりはなく、それは留保の程度を超えているということを、吉本自身は見えていない。
「麻原のやったことをすべて否定するなら、日本の仏教のなかで存在を許されるのは浄土宗、つまり法然、親鸞系統の教えしかないことになる」と述べ、多くの批判を浴びらが、吉本には一聴すべき言葉も多く、「新しい歴史教科書を作る会」における(西尾・藤岡・西部)らの運動に関し、「教科書を作り直せば健全な子供が育つというのは大間違い」という考えには共感する。
旧来の左派・右派のいずれにも組しない独自の、「自由主義史観」の構築を提唱した藤岡信勝らによって始められた、「新しい歴史教科書を作る会」も、集合離散を繰り返したあげくの2011年に一定の役を終えた。英雄は孤独である。統治者も孤独であるべきと考える。エコ贔屓はよくない、身内で固めるのもよくない。対等に議論するなら支え合う同志の存在はいてもいい。
が、政治を「私」する統治者であってはならない。変人総理の小泉純一郎は孤独な一面があったが、お友達の多い安倍総理に孤独な苦悩の欠片も見えないばかりか、婦人が政治を「私」するなど言語道断である。カントは、「私は孤独である。私は自由である。私は自分自身の統治者である」と述べている。人間は生を受けて以降、いずれかの枠に所属していることになる。
家族も国家も組織も企業や団体、共通の主義や信条にいたるまで、何らかの対象に所属して生きてきた。そうした中、可能な限り「無所属」の時間を楽しんできた自分である。それはカントのいうように、「自由」を望むからである。人はそうした制約を自らが精神的に解放しない限り、解放はできない。「所属」という安寧は理解できなくないが、制約より自由を望みたい。
以前、「尊敬する人は誰?」と問われて、田中正造と答えることは多かった。今は聞かれることもないが、田中は孤高の老人であった。孤高ゆえに変わり者とされたが、当然である。多数派に属さない者は変わり者なのは当たり前で、欧米ではむしろ評価となるが、文化の相違から日本では変人となる。自身の生き方の選択であるから、他人の視点はどうでもいいこと。
『弧狼の血』というヤクザ映画が上映中だ。長男と長女の夫が観に行ってきたらしい。誘いはなかったが、どうせ行くなら一人で行きたい、「孤老」の自分である。若いころは同じ小説や映画の価値観を戦わせたが、今は戦わせる気などない。それぞれが自身の解釈を秘めていればいい。そういう気持ちが支配的になることが、「孤独」である。誰かとつるんでの安心はない。
五木寛之も近刊で、『孤独のすすめ』なる書籍が平積みされていた。売れているのだろうが、中身も目次を読む気もおこらなかった。そんなことは誰かに言われなくてもやるし、やっているので教えを乞う気がない。概ね老人が人生後半に不安を抱くのは当然だろう。だから、心構えを書いているのだろう。「人生後半の生き方」という副題からしてそうであろう。
それすら自分で考えればいいこと。人生に不安を抱くなら、①友人を増やす、②健康に留意する、③子どもに寄っかかるなどの方策が考えられるが、②以外は興味なし。自身の健康は何においても自己責任である。暴飲・暴食はないにしろ、基礎代謝などが変質した年齢において、以前と同じ間食も含めた食生活は、負担になろう。「一汁一菜」が美食とされる年代である。