人間は自分を見つめることが如何に大事かを記した。それくらいに人は自分のことが見えない、目も届かない。ばかりか、自分の行為を正しいと思いたいのも人間である。正しくはないのにあれこれと理屈をつけて、自己正当化したがる人は多く、そうであるかどうかは話してみれば分かる。なぜに自分を是々非々にみれなう?そういう自分を発見できない?との疑問がわく。
意地とか見栄が邪魔をし、素直になれないのか。こういう人を鼻持ちならない人という。プライドの高い人間は自己愛が強いあまり、必要以上に自分に執着する。人から指摘されたり、教えを乞うなど最も嫌がるタイプである。自己教育力さえあれば自己の向上は望めるが、それすらなく他人の指摘にも耳を貸さぬ人は、人間としての器も小さくお山の大将的な人になり易い。
自分を支えるものがプライドなら、それを逸すれば何も残らぬことになる。「自信家の人は上目線で威張っている」などの言い方をするが、思うにそういう人は実は自信のない人にも多い。「自分がすごいこと」や、「自分が偉い」、「自分が人より優れている」、「いかに自分が人から愛されている」などを他人に伝えて自信を持ちたい、認められたい自己顕示欲が働く。
自信がないから何かで人に認めてもらいたい場合と、自信を誇示したい人間がいる。後者は単に自慢という面もあるが、上司やコーチに自己をアピールする方法であり、それすら広義の自己顕示欲であるが、こういうタイプには何かと努力の裏付けがあることからして、ただの目立ちたがりとは違う。人は人に認められたいという承認欲求は誰にもある自然なことだ。
反面、努力の裏付けのないただの目立ちたがり屋は、他人の信頼を得ることはない。日本人は積極的な自己アピールを嫌うところがある。それらは日本人の本流に流れる、「奥ゆかしさ」ともいうが、見方を変えるとシャイ(内向的)な民族である。それは積極性を疎んじ、消極性に甘んじる姿勢である。近年は以前ほど、消極性を美化する風潮は退行したようだ。
「自己顕示欲」が強いと、つい自分自身を大きく見せるために噓をつく。そのような例はいくらでもあるが、STAP細胞の小保方晴子と、ゴーストライター問題の佐村河内守らが記憶に新しい。小保方のような人物をある精神科医は、“空想虚言者”と名付けている。“空想虚言者”の特徴は、自分がついた嘘を自身が信じ込み、周りの人を騙していくというもの。
彼女は未だにSTAP細胞を信じているのだろう。彼女の手記は読んでないが、断片的な記述からすれば、彼女は自身が被害者だという強い思い込みを感じているらしい。現代社会においては、「被害者」という肩書は誰でも手に入れらる。「私はこんな被害を受けた」と声高に叫べばいいのだから…。ただし、それをいうなら、問題の本質を明らかにすべきである。
この世で人間ほど厄介で難しい生き物はいない。飼うのが難しいペットもいるらしいが、人間はペットどころではなかろう。その難しい人間をペット状態にし、楽に飼育しようとする親もいるが、順応する子もいれば反抗する子もいる。「人間とは何?」が難しいならせめて、「自分とは何?」くらいは見つけたい。が、自分自身の人格を言葉にして語れるのか?
あれやこれた分析は可能で、自分を「かくかくしかじか」と語る人はいる。ならば言葉にして語ることがその人であり、その人の人格なのか?本人が語っているのだからそうであろうと肯定する人もいようが、自分はそうは思わない。なぜなら、本当の自分、自分の本当の人格とは、自分を全く意識しない時に現れるもので、西田幾多郎も述べていることでもある。
人間の不確定さは、「陽子力学」世界のようでもある。目を閉じ、「だるまさんがころんだ」と発するときに、動く彼らこそが本当の彼らであろう。人は静止状態の対象しか見ることができない。『人間とは何か』の著者Ⅴ・E・フランクルも、同じようなことを述べている。「自己超越をした時にこそ自己実現が叶うもの」であると…。つまり、人間には自己を取り巻く幾多の障害がある。
それに邪魔をされ、押し込められている状態においては本来の自分を発揮できていない。したがって、障害を排除して自分を超えることが必要だ。自己を超えることといっても、はるかに超えることを、「自己超越」といい、その先に、「自己実現」がある。いかなる状況においても、「生きる意味」を見出せる人は、どんな困難に遭遇し、陥っても生き続ける人である。
生きる意味を見いだせない人、それを捨て去った人は、困難に遭遇したとき、生き抜く力が湧きあがらなかった。だから自死を選択する。常々思うのは、「困難や苦悩の中にこそ、真実の幸福が隠れている」。これをいじめで生きる力を削がれた少年・少女たちに伝えられないだろうか?その前に、彼らが苦悩を乗り越えるには、生きる意味や目的を見出す必要がある。
いじめを受けて、「生きる意味がない」と感じるのは短絡的だが、彼らが小さなキャパであるのがいたわしい。いじめ以外に生きる場所はいくらでもあるはずなのに、なぜいじめのことだけで、「生きる希望をなくするのか?」。いじめの問題について考えるとき、「いじめ=抗議」という現実を避けられない。いじめで命を絶つ者の多くは、いじめた相手への抗議である。
いじめ相手に対する消極的反抗である。自分も母親への抗議から自殺を考えたことがある。自分が死ねばさすがの鬼も悔いるであろうというのも仕返しであって、死ねば精神的に楽になるなどは目糞ほども考えなかった。諌死によって信長をでち直らせた傳役の平手正秀だったが、バカな母を死で諫める価値はなく、バカバカしい限りならと、積極的な反抗を選ぶ。
バカを相手に大切な命を冗談じゃないと自らを諫めながら強く生きた。誰でも弱い時期はある。ナルシズムに酔い、自死を情緒的に感じる者もいるが、現実的な死を情緒と対比させるのは勿体ない。命を大事にする教育がなされているようだが、美辞麗句や情的な物言いは、かえって死を美化させてしまう。欧米のように死の画像はぼかしたりに自分は反対だ。
死者の尊厳に思いを馳せるより、真実から目を背けない教育が優先する。子どものころ目にした鉄道自殺による轢死体は人間の残骸であった。散乱した人間の部位や肉片を集める駅員たちを眺めながら、子どもながらに思ったのは、人は人の形をしてこそ人である。人はジグソーパズルの完成品でなければ人にあらず。「死」の直視によって、「生」の執着は高められよう。