富を手中にした人は幸せであろう。なぜなら、富を求めて叶えることができたからだ。幸せになろうと富を求めるも、「賢明であれ」と貧困を授かった人も幸せである。不幸な富裕者もいれば、幸せな貧困者がいるように、「幸福」は意識の持ち方である。何事もなく過ぎていく一日が幸せであるとを感じる人がいる。「幸福」とは小さなことに気づくことかも知れない。
手で水を飲む人にコップを与えて分かることもある。コップを与えられた者は幸せそうな顔をするだろう。こんな小さなことに感謝できる人は幸せである。不満ばかりで生きてる人は、そんな小さなことには喜べない人である。すぐ人に腹を立てる人は感謝ということを知らない人、相手を認めることすらできない人である。長く生きてみてそのことが分かるようになった。
そういう人はどこから道をそれていったのか?人を認める度量の無さは己に自信のない人だから、他人を認めるだけで不幸を感じてしまう。小さなことに満足できない人は、大きな満足を求め過ぎて小さなことに気がつかない。たとえ気づいても小さな満足では満たされない。どこらあたりまで過去を戻せば、人は小さな幸せにでも満たされる生き方ができるのか。
各々が自らに問うしかない。自信とは自分を信じることだといった。自分を信じられない人は、他人の評価を気にして生きる。ごく自然なことだが、「他人の評価を気にしないようにしたい」と考えて努力をする人には、それをやりたい理由がある。経験者としていうなら、自分を信じることは自分を誇示する必要がなく、あるがまま以上に見せることもしない。
何故そうなるかといえば、ことさら誇示する自分は本当の自分ではない。誇示する人は本当の自分を見せてはいないことになる。「自己顕示欲」というものは誰にも備わっていてない方が可笑しい。「自己顕示欲」を葬るためには、それがないかの如く振る舞うではなく、自らに存在する、「自己顕示欲」を嫌だと感じること。それが武装を捨て、生身に正直に生きる第一歩となる。
それが講じて、「生身」の自分を楽しむことができるようになればしめたもの。己を大きく見せたり、見栄を張ったりする人間が滑稽に見えてくるようになる。他人のそういう生き方を表立って批判する必要はない。相手はそれをしたいのだから。そうではなくて、自分がもしそうであったなら、みっともないし、羞恥であって、カッコ悪いと思えるなら幸便である。
そんな自分なんかと自分は付き合いたくない。そのように思うようになった。人間が付き合う相手は他人に限定されない。人は自分と付き合うことにもなる。だったら、自分は好人物でありたいのでは?自己変革についての啓発本というのは山ほどあるが、一冊も手にしたことも、手にしようと思ったこともない。人間は考える葦というが、それでこそ人間である。
嫌な相手と付き合いたくないということを頭で考えないように、嫌な自分と付き合いたくないためにどうするかくらいは自分で考えられるはずだ。こんなことは実に簡単である。むしろ、やるかやらないかという行為の方が難しい。いや、それも簡単だ。自分に言わせるなら…。なぜなら、嫌な相手と付き合わない方法が簡単であるようにである。自分にとってだが…
面白いのは、嫌な相手であっても、付き合いを断るのは難しいという人がいる。その理由は分からないことではない。つまり自分も、そういうことを経験しているからだ。だから、嫌な相手と付き合わない方法を模索したところ、実は簡単なことだった。なにかをどうするか、どうすればいいか、そういった答えは思考から簡単に導かれることが多い。人間が考える葦であってもだ。
他の動物比較して人間の知能は優秀だが、不得手なところは、もたらされた結論や方法なりを実行することだろう。ここに人間の難しさ、人間が病み苦しむ原因がある。古人は人間がそうした生き物であることを知るからこそ、「己を超えよ」と言葉を投げかけている。それらを体系的にしたものを「思想」という。「哲学」ともいうが、「思想」と、「哲学」は違うのか?
図示にあるように、「思想」という枠のなかに「哲学」、「宗教」があり、「哲学」はさらに「西洋哲学」、「東洋哲学」に分類される。共通点は、「自分や人間について、世界という物事についての本質を徹底的に思考し、真理を追究する」となるが、やはり考えに考えた暁には、「真理」というものが見えてくるような、そうした錯覚は、誰であれ抱くのではなかろうか。
あえて、「錯覚」といったが、真実、事実が思い込みであるなら、真理も同様に錯覚である。他人の考えは他人から見れば錯覚となる。それくらいに、真理といわれるものがこの世に多数存在する以上、すべては錯覚とするのが公平であろう。どれが正しい、どれが間違いと、的確にジャッジするものがどこにいるというのか?すべての思想は独自のものである。
あえてそれを、「神の発言」、「神の思考」とすれば、語句を強めることが可能である。「神」を持ち出すのはズルいといえばズルいが、神という最高権威を持ち出せば、思想は絶対真理となり、言葉は至言となる。が、世の中に多種の人間はいて、「自分はそんなペテンには乗らん」という者もいる。自分もその類であって、つまり、否定はしないが絶対真理と受け入れない。
葦如き思考であれ、たかだか市井の凡人であれ、我を信じて行動するのが、自己責任の王道か。間違えばそれでまた一つ賢くなったと思えばよい。絶対に間違わないで生きていたいから、神の権威にすがるという人もいてもよいが、間違いを恐れて生きたくない。すべてが肥やしと思えば何でもできようし、偏らず多くを体験し、かけがえなき、「生」を横臥したい。
人から多くを学ぶが、自身にとっての最高の師は自分その人である。他人の卑しさ、ズルさ、脆弱さを横目で笑えるようになれたのは、自分がかつてそうであったからに他ならない。だから、他人を見下げて笑うというより、自らをかつてを笑いたいのだ。よくもそんな人間をやれていたものかと、嫌になるし、恥ずかしくもある。自己変革は今なお継続中である。
これほど嫌で嫌でたまらない自分なら、そういう己にいつかおさらばできるだろう。自分を厳しくとらえていないと、人間は安易に流れてしまう。なぜなら、安易が楽だからである。こういう詩に気づいたことがある。泉谷しげるの『春夏秋冬』である。1972年にリリースだから、彼はまだ24歳の若造。ズルくなる盛りであろうが、〝照れ笑い″という自己嫌悪が正直すぎる。
となりを横目でのぞき 自分の道をたしかめる
またひとつずるくなった 当分てれ笑いがつづく
今日ですべてが終わるさ 今日ですべてが変わる
今日ですべてが報われる 今日ですべてが始まるさ
またひとつずるくなった 当分てれ笑いがつづく
今日ですべてが終わるさ 今日ですべてが変わる
今日ですべてが報われる 今日ですべてが始まるさ