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「老いと死」について… ③

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「老い」がなんであるかを確実に理解するのは、自らが老いてみてである。同じように、「死」がなんであるかは死ねば理解する。であるなら、我々は死を永遠に理解できない。しかし、春がなんであるかは冬になってわかるように、死があってこそ、「生」が輝くと理解に及ぶ。牢獄につながれてこそ、自由の値打ちを分かるのも人間である。これらのことから何を学ぶのか?

悲しみ寂しさ生きる苦しさ、それらを、「ある」ものとして受け取って、諦めることなく生きていくこと。我々は死ぬまで生きることができるのだから、急いで死ぬこともなかろう。確かに自らの意思で死ぬ自由は与えられてはいるが、「死ねば必ず後悔はする」と思えば、そう簡単に命を捨てられるだろうか?生きて、生き抜いて、後悔した人がこれまでいただろうか?

「あの時死ねばよかった」などと人はいう。確かにそれは後悔の念として伝わるが、それはその人が生きているからこその言葉(後悔)であって、「なぜあのとき、思い余って死んでしまったのだろう。死ぬんじゃなかった」という後悔は、当たり前だが聞いたことがない。「後悔しないような生き方を…」というのを努力目標に掲げる人がいる。そりゃ、誰だって後悔などしたくはない。

後悔は、「生の証」である。自分が生きてる証と考えれば、後悔とてまんざらでもなかろう。残念なのは、後悔したくてもできない状況で、それが死というものだ。我々は後悔と共に生きればいいのである。「後悔先に立たず」という教えがある。誰が言い出したかわからないが、これって可笑しな言葉ではないのか?「別にオカシクない」という奴はいたが承服できなかった。

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少しばかり言い合いになったが、「後悔先に立たず」の意味は、「既に終わった過去を、後で悔やんでも絶対に取り返しがつかないということ」である。「だから、後から後悔するぐらいなら、事前に十分注意をしておくよう促しているのだよ」。と友人は言った。そんなことは分かっている。自分が言いたいのはそうではなくて、後悔は後でするから後悔というのだと。

「何かをする前にそのことについて悔やむことなどあり得ないだろ?」ということ。「それはそうだが言葉の意味は、後悔しないようよく考えて行動しろという注意なのだよ」と彼はいう。自分は食い下がる。「後悔しないようによく考えて行動すれば、後悔しないものなのか?」といえば、「感情を持つ人間のやることゆえに現実的にはあり得ないが、あくまで促し言葉だろ」。

彼も自分と同じで将棋を指す。それに殉じていえば、プロの棋士であれ、アマチュアであれ、一局のだけならともかく、何十局、何百局の対戦において、後悔しなかった棋譜があるだろうか?負けたから後悔するのではない。勝った勝負であれ、後悔は必ずあるが、「まあ、勝ったから良しとする」と自分を慰める。すべての対戦は、事前に後悔せぬように戦った結果である。

結局、二人はそういう話に移行し、話の終着点というのは、「後悔先に立たずとはいえど、後悔するのが人間だ」ということに落ち着いた。「後悔先に立たず」には、「とはいえど、後悔するのが人間」という言葉が略されている、で折り合った。、あらゆる諺や慣用句とは、先人の教えを網羅したもので、「犬だって歩けば棒にあたる。だから気をつけなさい」と促す。

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が、これを人間に当てはめるなら、「犬だって歩けば棒にあたる。だから気をつけなさい。それでも人は棒にあたる」が正しい。どんなに注意し、用心はしても、「難」は起る。福島の原発事故は象徴的な事例であり、そのことで一気に原発不要論が沸き起こる。「想定外」という言葉は便利である。想定し、対策を講じていたにも関わらず、「想定外の事故に耐えられなかった」である。

どの口で言ったにせよこれは詭弁である。人間はこういう言葉を勝手に造ってまで、自己責任を回避しようとする。それを思えば、武士のハラキリの潔さには人間という傲慢な生き物に対する提言であろう。さっこんは、「内股膏薬」は死語になってしまっている。「内股膏薬(またぐらこうやく)」と読むが、内股に貼った膏薬は右についたり左についたりと変幻自在。

そのことから、「方針や信念もなく、その時次第であっちについたり、こっちについたりする節操なき人」のたとえとして用いられるようになった。が、この言葉を使わなくなったのは、「内股膏薬」はスタンダード化したことによると自分はみる。かつては節操ことが今では標準化されたのなら、誰もそういう人間を責めない。責めたとしても我に当てはめて許す。

世はまさに、「皆で渡る赤信号」に時代になってしまっている。政治家の違法献金が発覚した時点で、政治家は弾劾され失職すべきである。それがなされないのは、それを許すための詭弁が用意されているからだ。して、そういう詭弁は政治家によって作られ、生まれている。こういうインチキ国日本であるのを国民は知っているが、騒いだところでどうにもならない。

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「政治倫理」というのは単なる言葉に過ぎず、「リンリ、リンリと鈴虫ではあるまいし…」と総理大臣がこのようなたばかった発言が許される国である。国民は政治不信を抱きながらも、喘ぎながらも政治家と共存している。なぜなら、地元民への利益誘導をしていれば、票がいただけるからであろう。民主主義とは選挙によって選ばれることなら、そのことに何の不足はない。

国民の政治離れなどどこ吹く風、「それならそれで結構」とばかりの政治家の心中すらも見えてしまう。そんな奴らと共依存関係の国民である。つまり、不肖の政治家を地元民は選挙に落とさない。ここにも「赤信号は皆で渡れば怖くない」との論理がまかり通る。老いがなんであるか、老いて分かるように、政治家というのも政治家になってみて「汁が旨い」と感じるようだ。

今井絵理子、山尾志桜里らは、穴に潜ってしまっている。春になればの心境だろう。細野豪志が5千万円?こんなことも不祥事どころか、「適切に返却処理はした」ということで手打ちで終わる。総理の問題も総理夫人関与の問題も、最高権力者ということでどんないいわけでもまかり通る。元総理が現総理批判をしたところで、蚊帳の外ばかりと発言は一蹴される。

親を選んで生まれないと同様、好きでこの国に生まれたわけでもない。親には反抗できても国家にはただ憤るしか術がない。つまらん人間を前にし、つまらん人間は何もできぬままに、己のささやかな享楽の中に身を投じ、楽しき余生を送るしか能がない。鴻鵠の志なき凡人のしがない一日は、何事もなく終わっていく。「何事もない一日こそ幸せ」と思えば済ませられなくもない。

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