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「老いと死」について… ②

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 おじいちゃんはとてもゆっくりうごく
 はこをたなにおきおえたあとも
 りょうてがはこのよこにのこっている
 しばらくしてそのてがおりて
 からだのわきにたれる
 
 (中略)

 きのうおふろばでおじいちゃんをみた
 ちぢこまったおちんちんがみえた
 おじいちゃんおじいちゃんおしえて
 むかしのことじゃなくていまのきもち
 いまいちばんなにがほしいの
 いまいちばんだれがすきなの

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谷川俊太郎の「おじいちゃん」という詩である。これはどこだか凄い視点である。老人に対して老いを主題にその愛を問うという、従来の童謡にない世界観を映している。もし、幼い孫が自分に同じことを聞いたらなんと答えるだろうか?「いまいちばんなにがほしいの?」、考えてみてもすぐには浮かばない。おそらく欲しいものがないからだろう。それでも折角だから答えてみる。

「そうだね~、力が欲しい」
「なんのちから?」
「いろいろな力かな。ゆっくり動くのは力がなくなったからだよ」
「うんうん、そんなふうにみえるね」
「だから、いろんな力が欲しいかな」
「いちばんすきなひとはだれなの?」
「一番は一つでなきゃダメかい?」
「そりゃ~ね。一番は一つだよ」
「そうか、だったら自分だな」
「へ~、じぶんなんだ」
「そう。みんな自分を一番好きでいいと思うよ」
「あんまりかんがえたことなかった。けど、そうなの?」
「自分を一番好きになって、人からも愛されるといいね」

人は誰もが老いて死ぬという避けがたい事実を新たな視点で冒険的に表した谷川ならでの作品である。『おじいちゃん』を載せた雑誌は、「児童文学の冒険」という副題を持つ斬新な季刊誌であり、実験的な仕事の香りは否めない。元来、童謡とか絵本というものは、本来が子どものためにのもので、彼らがこの世界に生きる喜びを歌い、未知の世界を発見させたり、教示したりのもの。

したがって上記の詩が子どもに不向きとは言えないまでも、子どもにとっては、「暗さ」が感じられるのは、「老い」に対峙しているからだろう。どのような視点、いかに理屈をつけようと、「老い」はネガティブなもの。かといって、決して子どもに無縁のものではないもの。学童期の子どもにとって、「おじいちゃん」、「おばあちゃん」は、どういう存在であるのだろうか?

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自分のことを思い出すしかない。祖母にはあちこち連れられた。誰かに会うと、「その子は孫?」と尋ねられ、嬉しそうに答えていた。あるとき祖母が、サーカスを観に行こうと誘った。自分は小学生だったが、祖母は自分を背中におんぶして幼稚園の代金で済まそうとする。自分はそれが嫌だから、「小学生っていうよ」と祖母を脅すが、「いい子じゃから黙っておいて」と頼まれた。

あるとき祖母が、「呉に橋を見に行こう」という。「なんで橋を見に呉まで行かなきゃならないのか?」と不思議に思った。行ってみて分かったのは、当時としては画期的な「音戸大橋」であった。昭和36年12月3日開通したその日だった。孫に日本の橋梁技術の結晶を見せてやりたいという、祖母の教育愛だったのか。これまでに見たことのない不思議な橋が目の前にあった。

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明治生まれの祖父は剛毅で寡黙で近寄りがたい人だった。まともに話すこともなかったが、先見の明とでもいうのか、母の大反対を押さえつけて、自分にクルマの運転免許を取ることを促した人である。甚だしくも近視眼的な母は、クルマに乗るなどトンデモないという考えであったようだが、吠える母に向かって祖父が、「ごちゃごちゃ言わんで黙ってろ!」と一喝する。

それで引き下がる母を見て、我が家で神が如く君臨する母を手名付ける祖父の偉大さに驚くばかりだった。費用はすべて祖父が持った。合格した暁に自分は、バイトで貯めたお金で祖父の好きな一升の樽酒をお礼に差し出す。祖父は長いこと樽を開けなかったという。何も語らず何も言わぬ祖父であったが、いつも遠きから自分を見ていたのだと、そうした男の理知を知ることになる。

祖父と孫も老人と子どもの組み合わせである。人生の辛酸をなめつくした老人が、人生の戸口にまで至らぬ子どもの導き手になるというのは、昔から児童文学で扱われてきた題材である。代表的な『桃太郎』をはじめ多くの物語が存在する。外国では理想主義者でヒューマニストのロマン・ロラン、グリム兄弟、ルイス・キャロル、スイス人のヨハンナ・シュピリなどが浮かぶ。

老人が少年の自立を促す話は多い。なんだかの話で、少年が旅立ちの前夜に老人に手紙を書くが、老人は少年の里心に配慮し、あえて返事を出さない。少年は旅立ち、老人は残され、それでも生き続けねばならない。時が経って少年は老人となり死の予感を感じながらこういう。「『夢の終わりこそ人生の始まりだ』と、私は思った。私は死のうとしているが、その前に覚っておきたい」。

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物質的にも精神的にも荒廃した世界で晩年を生き続けねばならない。かつてあの老人は、あのとき少年だった自分の内部に存在したもう一人の自分である。なるほど…、これに似た体験を持つ人は世の中に居るはずだ。「人間とは何か」、「生きるとは何なのか」、「他者との関わり合いとは何であるか」という、大きな主題や命題を含む児童文学の力作は諸外国には少なくない。

谷川俊太郎にはなぜか、「ひらがな詩」というものが際立っているが、ある外国人劇作家が谷川の「ひらがな詩」にこういう指摘をしている。「(谷川のひらがな詩が)あれほど力強く素晴らしいのは、ひらがな詩であるがゆえに、漢語の、いかにも知性と哲学が充満しているようにみえるけれども、実は空疎な抽象性しか持たぬ数々の落とし穴から、免れているからだと思う。

詩がひらがなで書かれていれば必ず児童詩ってことにはならない。こむづかしい漢字を書き連ねてありさえすれば、即深遠かつ意味深長な作品ととらえられやすい傾向がある。焦点の定まらない内容を漢語の羅列で誤魔化しているのだろう」。同じことは観念的な文の羅列にも感じられる。そこには実体や実存というものとはかけ離れた空疎な世界があるのだろう。

谷川には『おじいちゃん』と対をなすもう一つ、『おばあちゃん』というのがある。これはばるん舎という聞いたことのない小出版社刊行からして、実験的な仕事であろう。発行部数の多い福音館書店発刊の、『もんぐりむんぐり よねばあさん』という、山姥が出るという山麓でひとり暮らしをするおばあさんの話があるが、これはわたなべ・ふみよになる創作現代民話。

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「もんぐりむんぐり」とは、ばあさんにせんべいをあげたときに、歯のないばあさんが、しわくちゃの口でせんべいを食べるときの口の動かし方のこと。そうしたひとり暮らしのばあさんと、それを温かく見守る近隣の人の触れ合い姿を描いている。谷川の『おばあさん』は、『おじいさん』とは違って、「死」が主題となっており、両者には大きなちがいがある。

 びっくりしたようにおおきくめをあけて
 ぼくたちにはみえないものを
 いっしょうけんめいみようとしている
 なんだかこまっているようにもみえる
 とってもあわてているようにもみえる

 まえにはきがつかなかったたいせつなことに
 たったいまきづいたのかもしれない
 もしそうだったらみんなないたりしないで
 しずかにしていればいいのに
 でもてもあしもうごかせないし
 くちもきけないから
 どうしたいのかだれにもわからない

 おこったようにいきだけをしている
 じぶんでいきをしているのではなくて
 むりやりだれかにむねをおされているみたい
 そのとききゅうにそのいきがとまった
 びっくりしたままのかおでおばあちゃんはしんだ


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