読書はライフスタイル変換のヒントを得るもので、目的論思考によれば、自分の未熟さの原因の一切は自身にある。それすらに気づくことなくあれこれ理屈をつけて、「意味づけ」をしたところで何も変わらない。理屈で納得させようとする行為そのものが未熟さであり、未熟な思考回路をどのように使い回したところで、他者を納得させるような明晰な理屈を見いだせない。
「しかと自分を見よ。逃げることなく正面から向き合え!」という果敢さこそが男らしさ。自分を誤魔化すことなく深く見つめて思考すれば、見えてくるものがある。それこそが自分が認めたくない本当の自分であろうし、自己変革や自己の改善はそこから始まる。アドラーは、「劣等感そのものは健全なもの」 と述べているように、「劣等感」を好ましいものとした。
劣等感は、「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」から生まれるもの。ハゲがハゲを悩んだところで、「ハゲは可笑しい!」という人ばかりではない。「ハゲってかっこいい!」という女性もいるし、男もいる。自分はどちらでもない。人間の外面的より内面に価値を見出すからだ。美人は美人であるのは間違いないが、素敵な女性というのは人の心になかにある。
解決できないことを悩むのは、なんという無益であり、徒労であろうか。劣等感が主観的な解釈で生まれる以上、その解釈を変えればどんな風にでもなる。「真理などない。すべては解釈である」をモチーフにアドラー心理学は成り立っている。主観的解釈はどのようなものでも選ぶことは可能であり、客観的に事実ですら、他者と自分を比較せねば何でもなくなる。
先日、在るところでのこんな会話をした。知人のAと見知らぬBが将棋対局をしていたところに顔を出した。しばらくしてAはBに負けた。Aは自分にBと指すよう促した。自分はBと指したが、あまり強くないBは、一度も王手をかけられず、ヒドイ惨敗だった。Bはもう一番といわず、何やら言葉を置いて不機嫌な様子でさっさと帰っていった。たまに見る光景である。
A:「Bさんかなりムっとしてたね」
自:「ヒドイ負け方でああなる人はいるよ」
A:「あんなBさんは今までみたことなかったな」
自:「そう?将棋は人柄がモロにでるから…」
A:「でもあんまりいい態度ではないね。大人げないというか…」
自:「なんであんなになるかを考えたことがあるよ」
A:「負けず嫌いだから?」
自:「それもあるけど、人を認める度量がないんだろうな」
A:「なるほどね」
自:「指せば実力差は分かるのに、それでも相手を認めたくない。相手をリスペクトできない心の弱さと思う。」
A:「いや~お強い!完敗です。歯が立ちませんわ、といえば済むことなのに」
自:「できないんだろうね。自分はすぐに言える。目の前に純然たる事実があるからで、なんでそんな簡単なことができないんだろ?」
A:「ま、それを狭量とか、器が小さいとか言うんだろう」
プライドとは、誇り。自尊心。自負心をいう。自尊心とは己の人格を大切にする気持ちであるが、それが災いして現実認識ができないという短所を背負う。自尊心はまた、自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度であるが、他人と能力の優劣を争うことではない。自分より能力のある人を素直に認めることのできない人間は、向上心には無縁となる。
プライドだけで上級者に勝てるわけもないのに、相手をリスペクトできずに張り合ってしまうのは、気持ち的に負けたくないのだろうが、気持ちと実力は別のものだ。負けたくないという気持ちは努力や研鑽に生かせばいいし、そのためには自分の実力のなさを素直に認めることだ。相手の強さも自分の弱さも認めたくない、という自尊心は捨てなければダメだ。
こういうつまらぬ自尊心を蓄えた人は、向上心もない。努力をせずに現状に満足しようと躍起になる横着者と吾は断罪する。孔子の言葉に、六十歳は耳順、七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えずとあるが、誰もがこうはならず、人間の理想である。近年、「老い」について考える機会が多いが、森鴎外は老いについて、「暫留の地」という語句を使っている。
「暫留の地」とは、「暫留の時間」でもある。決して加齢によって減少するとは限らない己を傷つける日毎の生活上の不協和音は、遂には生の終焉の希求を結果することになることもある。生きているのは生かされているわけだから、死は不意に訪れる気まぐれものだから、ある日突然の脳卒中、突如の心筋梗塞、気づかぬだけで体がガンに侵されているかも知れない。
ある老年学の書物に成熟型の老人として、「建設的・積極的」で、対人関係にも満足し、「過去に対する後悔も将来に対する不安もない」とあった。「一切の」という言葉を省けば、「過去に悔いも将来に不安もない」という人はいる。「ほどほどに満足」という生で十分であり、余程の楽天主義的な人でなければ、「後悔や不安は一切ない」とは非現実的であろう。
もっとも、過去は過ぎ去ったのではなく、深まりゆく、「今(現在)」の中に生きているし、未来もまたその時の熟する日々を内蔵する、「今」の内にある。老人に未来はないというのは比喩であって現実的ではない。ただ、「待つ」ほどの未来がないのが老人であることは理解できる。「今」がずっと続いていてくれたらそれがいいと、やはり老人は未来を怖れるところがある。
我々はいつか死んでいく。それは間違いのないこと。あの世を信ずる人は幸せであろう。死んですらも幸せになりたい。だからあの世を信じるのか、そういう人に対する勝手な想像をするが、死後の世界はないと思っている。死んであの世で生きていたいなど思わない。「一体、死んでいつまで生きるつもりなのか!」と死後の世界を信じる友人をからかったことがある。
一度きりの人生では物足りない人もいるなら、一度の人生を大事にしたいという人間がいてもよかろう。死んで行くところなどないなら、生きてる間に動けばいい。足腰立たぬこともあるというなら、不自由が来る前に動いていればいい。運命に逆らうことはできないが、理想の運命を選択したいがために、足腰や心肺機能を高めたいと努力する人はいる。
定まった運命はなく、あるのは、自らが望むべく運命に近づきたい人間の努力である。努力の結実は未定であっても努力はすべきもの。なぜなら、努力の結果と、努力なしの結果が同じであるという断定は誰にもできない。ペシミズムの対義はオプトミズムである。何をしても何も変わらないというペシミズム、何かをすれば善いことにはなるだろうのオプティミズム。
人間は自らを選択できるもの。結果は選択の彼岸にある。消極的な老人はロッキングチェアを好むだろうし、積極的な老人はスニーカーを好むだろう。どちらを好むか、それが選択である。いろいろな人の晩年があるが、精神科医で心理学者のユングは晩年にこう述べている。「人々が私を指して博識と呼び、『賢者』というのを私は受け入れることなどできない」。
これは老子のいう、『俗人は昭々たり。我独り昏(こん)のごとし』と同じことをいっている。老年は死の問題を抜きには考えられない。およそ人類の歴史が始まって以来、数十億人が一度は死を体験している。万人が体験するものなら、死を必要以上に怖れることもなかろう。この考えも死の怖さを緩和するが、どうあがいたところで生かされている人間は、死ぬときは死ぬ。
「死ぬまで生きよう」。これほど簡潔な言葉はないが、老子もこう述べている。「よく生きながらえる人は十人に三人、ただ死んでいく人が十人に三人、命を守ろうとして動き回り、かえって死を早めてしまう人が十人に三人」。はて、どれに属すのか?「いつ死が訪れてもいい」との覚悟を持ち、ことさらに生に執着することなくその日をを楽しむ他に何がある?