「もう少し自分の頭がよければ…」、「美男 (美女)に生まれていれば…」、「もう少し体が丈夫なら (運動神経がよければ)…」、「もう少しお金もちの家に生まれてさえいれば…」、こんな切ない人生でなかったろうに。などと思えばなんだか悔しいやら、情けないやら、そんな風に思った人はいるはずだ。それを屈辱と感じて、耐えて生きてきたのかも知れない。
あるがままに素直に生きるのは辛い。だから自分を偽り、強がったりの生き方に光を見出そうとする。「あるがままの自分を受け入れる…」言葉だけなら簡単だが、それができない理由も分からなくもない。が、何歳になってもそういう生き方から抜け出せない人であるのは、同じ年齢になってみるとよくわかる。これまで自分を変えようなどと思わなかったのだろう。
自分を変えようと決断する契機を持たなかった人たちに思える。つまらぬ自尊心や虚栄心を拠り所に死ぬまで生きていくのか?そういう人は自然に相手が遠ざかることに気づかない。他人に文句ばかり言う人は、他人からも疎まれるという感受性がなぜかない。自分のような年代になると、付き合う相手を吟味するし、つまらん人とは同じ時間を持つことはしない。
「つまらん人」にはいろいろあるが、自分がもっとも避けるのは、エゴ剥き出しで他人への「思いやり」、「やさしさ」がない人で、これはすぐに判明する。できるなら早い時期がいいが、自分を変えようとする時にはこれまでの自分を捨てる覚悟がいる。これまでの自分の無知さ、愚かさ、自己中心さを自己の探求から見つけ出すこともあれば、他人から指摘されることもある。
相手の言葉に素直に耳を傾け、偽りの生き方に気づくかどうかが自己変革の契機となる。「人は自分のことをそんな風にみてたのか」というのは驚きであり、「自分はそういう人間であった」という事実を知る。単に人がそう見ていただけでなく、自分の存在を思い知ることになる。そんな醜い自分をどうする?他人の指摘は無視をできる。それが自己愛というもの。
自分が可愛いければ他人の批判に耳を貸さないばかりか、批判されて逆上する人間もいる。それくらい他人からの批判を嫌がる人間は、自分に自信が持てない人間である。批判を受け入れるなら、自分は無に帰するという怖さである。だから他人から善人と思われようと、めいっぱいの行動をとる。他人が嫌がることですら嫌ではないと、自他の差をつけようとする。
「できた人間」に見せているが、哀しいほどに自分に無理をして生きている。普通はしんどく息詰まるがそれすらにも慣れる。周囲の多くを騙せても、経験豊富で洞察の強い人には見透かされ、親切心から、「もっと自分に正直に生きたら?」と指摘されても、反発心もあって変えられない。自分に素直になれない人は概ねこういう感じである。偽善に生きる人は見ていて痛々しい。
男にもいるが、圧倒的に女性に多かった。女はなぜにそうなるのかをいろいろ考えてみたが、やはり他人から見た自分を生きるからであろう。自分が他人からどう見られているかが、その人にとっての最重要になる。なぜそうなるのかは、「女であるから」という言葉で言い足りている。心理学的・社会学的分析はできるが、「それが女というもの」で十分足りている。
鏡を見ながらうっとりの時間など、男にはないからだ。鏡は自分を映すものだが、男は鏡に映る自分が嫌だというところがある。つまりは、自分が人にどう見られているかより、自分が人をどう見るかを優先するのだろうか。少なくとも自分はそうであるから、鏡なんかほとんどみることがない。やはり嫌なのだろう。自己変革は自分を捨てることから始まるといった。
自分を捨てることがどんなに難しいか、その障害になるのが自己愛である。昔ある人がこう言った。その方は賢人であった。「人が自分の取捨選択を強いられるのは、子どもをもってからだよ」。結婚前の自分にその意味は分からなかった。「それって自己変革を強いるってこと?」と尋ねたら、「自分を捨てる本当の意味は、子をもってわかるということ」そういう教えだった。
「恋人ができたら変わるといいますが…」というと、「それは自己変革というより、虚栄心を増幅させるだろうね」という。なるほど、「いいかっこってやつですね」。そんなやり取りと記憶する。確かに子どもをもって見て、自分を変える必要に迫られた自分だが、おいそれとそう簡単には変えられない。そこで自分が考えたのは、理想の父をイメージし、演じることだった。
素のままの自分で子どもに接すればとんでもない子になるような気がしたからだ。もっとも、それまでに幾度か自己変革を強いられる他人の言葉はあったし、嫌な自分を変える努力はしたが、まだまだ道半ばであった。が、理想の親を演じることは、さほど難しいとは思わなかった。なぜなら、親のエゴを排して子どもの気持ちをつかみ取るのは、自分の親の理想であったからだ。
自分の幼少期に親からされた何が嫌だったかを思い出せばいい。誰もかつては子どもだったからだが、幸いにして自分はそれらのことを憎悪として内面化していた。子どもを躾けるのは何のためにか。子どもを養育する目的は誰のためにか。そういう根本的な問題においての結論は、子どもは親の自我を満足される道具ではないということ。要約すれば、「子どもは誰のものか?」
「子どもは親のものではない。神からの授かりもの」という欧米の宗教観は、親の子どもに対するエゴを戒めている。さまざまな形の愛があるのは頭で理解はする。キリストの愛とかは言葉尻から知っており、友愛、恋愛、性愛などは実体験もある。しかし、そうした愛はどこか欺瞞的なものがあった。ところが子どもへの愛は、これほど真実なものはないものだと知る。
そのことが、「自分を捨てる」という本当の意味を理解させられた。レンジでチンというわけにはいかないものだから、すぐにはできないにしても、理想の父親を演じているうちに少しづつ、親のエゴやつまらぬ自分を捨てられるような気にもなれた。「人間は本当に人を愛すことができたら、完全に自分を捨てることができる」という、そのことだけは理解に及んだ。
自己イメージを高めるために子どもを利用する母親は、「誰のための子ども?」というのを自らに突き詰めるべきかと…。子どもの手柄は親の手柄という親でも、子どもはさほど嫌がらず、親があってこそというよそ行き言葉を耳にする。部下の手柄を横取りするような上司は上司にあるまじき批判に晒されるが、子どもは年齢的な未熟さもあってか、親批判ができない。
もっとも自分は、何でもカンでも親の恩というのは親をつけあがらせるもので、子を持った親として当然の義務であると考えている。なぜなら、自分も間違いなく親になるからだ。我が親には恩を抱き、我が子に、「恩はいらない」という器用な振る舞いができればいいが、立派な考えも突き詰めれば矛盾である。「子育ては親の先験的な義務」と考えるのが理に適っている。