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Channel: 死ぬまで生きよう!
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書き綴ることが「展望」となる ④

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女が実家を出るということは、嫁ぎ先に新たな親ができることになる。同じことは夫の側にも言え、彼らにも新たな娘ができることになる。なのになぜに娘(嫁)をいびるのか?原因の一端は昨日述べたが、新たな家族の仲間入りをすれば、家のしきたりに順応するために嫁は努力をするだろう。幸いなるかな女性は頑なな男に比べて順応しやすい特質がある。

「女三界に家なし」の三界の一つは姑でなく夫である。自分の妻は夫の考えや価値観に順応した。さらには姑にも順応する必要があったが、ここで問題なのは、夫と姑の価値観が異なる場合である。我が家はそれが顕著であった。自分が右といえば姑は左という、これまさに母と息子の対立である。嫁は板挟みにあって右往左往することも考えられ、自分は姑に強権で接した。

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「『船頭多くして舟山に登る』というが、我が家のことは自分が決めるので口を出さないで欲しい。老いて子に従えないなら同居はできない」と、言い渡す。息子と実親は肉親で嫁は他人なら、肉親同士は遠慮せずに物を言った方がよい。親に気を使ったり、遠慮するから支配的な親は、息子や嫁まで支配しようとするので気を抜けない。自分は親の支配に断固抗った。

家族を養う夫は方向性を自ら決めるべきであり、それ相応の価値観が存在する。それを壊そうとする親が同居していいものか?息子の上に立とうとするバカな老婦に夫は釘をさすべきと考える。ゆえに嫁姑問題は夫の責任だろう。自分は自分のカラーを出すために、因習・慣習に一切について親の意向を無視した。「そういうものに自分は拘束されたくない」と、親を諦めさせる。

妻は何も言わずにいたが、そういう場合に意地汚い親は、「お宮参りもさせないバカは世間の笑いものだろ。嫁がちゃんと言わなきゃダメだ」などと入れ知恵をする。それでも自分には何も言わず、結果的に親の顔に泥を塗ることになる妻の心労はいかばかりであったか?自分は母の支配を早期段階で徹底排除しなければ、後々大変なことになると感じていた。

無理知で無神経に人を操縦(意のままに操る)する傲慢な母と理解していた。ゆえに嫁の操縦をするだろうし、反抗できない嫁はロボットにされるのは目に見えていた。自分が入信する新興宗教に勧誘するわ、孫にまで天理市で行われる大祭に連れて行こうとする母に対し、「バカげた宗教もだが、今後自分を差し置いてつまらん吹込みをするな!」と最後通告をする。

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この人にはこれくらいでないとダメと知る自分である。孫可愛さに金銭を渡す年寄りは多いが、孫を手名付けるためにそれをやるのはどうであろうか?母の支配が孫に及ぶ懸念はあったが、長男ばかりを特別扱いすることで、三人の娘からは批判も出る。妻は長男を説得し、「祖母から貰ったお金はみなで分けるから」と自主申告されたのはいいアイデアであった。

それくらいに露骨な長男贔屓をする母は、「長男は跡取りだからあんたたちとは違いのよ」と、昔の人にありがちといえばそうだが、そうした理知のない言動を平気でする。兄弟は対等であるのは皆の思いであることも分からない。狭い考えに支配された人間の怖さである。世の中の多くの家庭で差別をされた兄弟が、牙を剥くことになった事件はいくらでもあるだろう。

自分が幼少期に苦労した母が、自分の家族にまで強権支配するのは許せることではない。自宅から仕事場まで1時間もあったこともあり、引っ越しを考えたが、学校を変わりたくない子どもを思う妻は姑の我慢はできるという。結局、あることを機に、「お前のような嘘つきバカ親とは二度と口を利きたくない」と自分だけが家を出る。どうしても許せない行為への示しであった。

あれから20年経過している。14~15年ぶりに会ったときも、皮肉をいう元気さは衰えてはない。いろんな意味で、「脳タリン」や、「バカ」とは話す意欲が萎える自分は、そうした毅然とした自分の生き方を好きでいる。世の中には自分が嫌う相手でさえ、何事もないかの媚びた態度をとる人間もいるが、「自分は一体どんな人間なんだ?」と自己断罪をしてしまうだろう。

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先日、県東部に嫁いだ三女から呼び出しを食う。何事かと思えば1月に生まれた長男のお宮参りであった。何も言わなかったのはおそらく妻の入れ知恵だろう。「お宮参りといったらお父さんは来ない」くらいは想像がつく。三女には、「4人子どもがいたが、初めてお宮参りをした。それも騙されて…」といえば、「『そんなことする必要ない』といってたしね」と妻がいう。

おそらく、「ああしろ、こうしろ」などと因習や慣習にうるさく、あるいは何事も、「世間、世間、世間…」と耳にタコができんばかりの、母への反抗心から作られた自分である。「世間が何だ」という反逆心を持つ人はいるだろうが、「世間=他人」と考えるなら、「自分の人生がなんで他人に関係ある?」という生き方ほど自由で楽なものはない。それができない人は不自由であろう。

自分がこうなったのは、「因習・慣習、そして世間体」をやたら持ち出す母のご利益だったかも知れない。子どもに関わる行事や儀式を一切しなかったのも、それを主導しようとする母を押しとどめるということもあったし、日本古来の文化に不服従を誇るものではない。妻とて子どもの、「お祝い行事」をしたかったろうが、女はやはり舟である。船頭のとる舵の方向に進んで行く。

これまで価値観の違いによる言い合いはなく、すべては自分に合わせる、完璧な「夫唱婦随」型の典型である。「責任はとるので任されたい」ということで能力を発揮できる自分の性向に合致した妻である。いちいち横やりを入れる女の思慮の浅さは、共に進んで行こうという気にならなかった。「女は男に従属することで、逆に男を隷属させている」とは言ったものだ。

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夫婦喧嘩や言い合いの類は、人から聞く度に不思議であった。建設的な言い合いもあるのだろうが、大方は犬も食わないものが多かったし、「なんでそんな風になるんだ?」しかない。「生きるに値するもの」、「行為としての価値」、「高貴なる自己所有物」、そういうものに自分を貫くべきであろう。そのためには、自らのエゴイズムと戦い、打ち勝つ必要もある。

確かに理想を唱えるだけで、周囲から冷笑されたりすることはあるが、冷笑する人間は一体に何を基準にしているか?にまで思考をすれば答えは明瞭である。それら多くはマジョリティであり、人と同じことをやっている安心感が異端を認められない。理想を貫く道の多くは少数派である場合が多く、自らが自らの理想という精神的搾取からの解放ではないだろうか。

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