観念的な家庭に育った子は親を裏切る苦しみを持つという。双方にとって親不幸となるからだろう。親のいうところの、「親孝行」とは子どもに自己犠牲を強いること。子どもの、「親孝行」とは、自己犠牲を厭わぬこと。こうした日本人の道徳感は、恩義に報いて義理を果たすことと解釈できる。自分は日本人だが、「こんなバカなことをやってていいのか?」である。
子どもとして、「やっていいのか」と同時に親の立場として、「子どもにさせられない」であると、親孝行についての記事で書いた。「孝行息子」という言葉はあっても、「孝行娘」というのは聞かない。娘は嫁いで他家の人間になるからだろうか?しかるに、「孝行息子」は独身時代に限らず、配偶者を娶った以後も親に孝行すること。悪いことではないが難しい側面もある。
さまざまなケースがあるので画一的には論じられないが、例えば夫婦と子どもだけの家族構成の場合、夫婦それぞれの親との関係は、訪問という短時間の接触となり、さほど問題になることはない。問題になりやすいのは、一つの家に夫婦とその親が同居する場合である。昔も今も続く厄介事が、「嫁姑」問題。なぜ問題になるかもさまざまあって、一概に、「これ」とは言えない。
一つの例として、「嫁姑問題」は、夫婦関係に親子関係が優先する、あるいは拮抗することで起こる場合がある。むろんこのケースは夫の親と夫婦が同居の場合に起こりやすい。いろいろな話を耳にもするし、映画や小説の世界でも知るように、こうした嫁姑問題で自分たちの親や祖母がいかに苦しんだか、またこんにちにおいても姑に苦しむ多くの女性がいるであろう。
嫁姑問題がなぜ起きるかについて昔から言われることは、そこには2つの無理が介在するからである。一つは二人の妻(舅と息子)が台所を共有するという無理。もう一つの無理は、長男継承による家族制度にある。息子は父の跡継ぎであり母親にとっては夫の代行者。それなら母親は息子をあたかも自分の夫のような位置づけをし、それが息子と妻(嫁)と拮抗関係に移行する。
舅の跡継ぎということで息子を支配しがちな姑も姑なら、父親の妻である母に牛耳られてしまう息子も息子である。互いがここに節度をもって触れ合えばいいが、できる者もできない者もいる。問題になるのは後者の側である。が、こういうことは西欧諸国には起こらない。理由として母と息子の関係が、息子の成長とともに一旦シフトするのと、夫婦関係優先社会だからだ。
さらに日本の「家」制度の特徴は、子が年老いた親の面倒をみること。親の側からいえば、老後の安泰とはそうしたことにあるという価値観である。が、近年はこうした「家」制度が崩壊したことで、老人問題が深刻化してきたといわれるが、こうした夫婦中心の社会制度をバックアップするためには、国の老人福祉政策が何より充実していなければならない。
「家」制度の崩壊により、親を老人ホームに押し込むことが親不孝者といわれた時代は去った。それを嫁の義務とされた時代の嫁の心労負担は大変なものであったが、親をないがしろにする親不孝な息子、それはおそらく息子に入れ知恵する悪妻などという風評がまかり通った時代でもある。世間に顔向けできないでは近所付き合いもままならぬといった時代の怖さであろう。
親子の夫婦が同居しないことが慣習となってきたこんち社会では、自然にその解決方法を発達させてきたといえる。何事も踏み出せば新たなものは生まれてくるもので、当初は後手に回ることはあれ、それに準じた対策は徐々に出来上がることをみれば、改革を怖れることはない。改革こそが進歩である。嫁の心労負担がなくなり、日本も先進国になったといえる。
嫁が姑の介護を含む面倒を見るのを、「したくてたまらない」という人はマズいない。いるとすれば、余程姑から愛情を供与されたか、あるいは偽善者であろう。つまり世間や周囲から善い人間と思われたいから、無理もさほど負担にならない。偽善行為というのは、自分に正直に生きていないからやれるのだ。親孝行というのは恩義から発生する義理であると書いた。
すべては求める側の罪であり、差し出す側には弱さが見え隠れする。そうした弱さを「美徳」と感じることで我が身を慰める人多し。実の母ならともかく、いじめられた姑のシモの世話をしたい嫁などいない。「徳」と「偽善」は紙一重だから、その正体本質は本人には分かっている。妻は姑に、「私はできません」と前もっていったが、無理をしてですらもできなかったのだろう。
正直な人間は利害に関係なく正直でいれる。ある行為をしたくなくても、せざるを得ないことは世の中にあって、それらを義務と解されている。義務にもいろいろあって、さほど躊躇しないでやれる義務もあるが、絶対にしたくない義務もある。義務教育を拒否すると3000円の罰金と聞いたことがあるが、戦時中の徴兵義務を拒否すれば大変な目にあわされたという。
逃亡とかでなくその場で徴兵拒否の意思表示をすると、憲兵に捕らえられ収監される。刑期は定かでないが、刑期が満了すると被告は、即日出頭すべきところの原隊に護送され、その時点から2年間の軍隊生活を余議なくされる。逃亡でもしようものなら、逃亡罪として軍法で厳しく罰せられ、その後に入隊したところで前科者として、最前線送りのような酷い扱いを受ける。
もっとも拷問や非人道的待遇は当然にしてあり、「治安維持法」では本土で75681人が送検され、明らかな虐殺65人、拷問等による獄死114人、病気等が原因とされる獄死1503人という記録が残っている。GHQ最高司令官マッカーサーは、「治安維持法」や、「特別高等警察」など、思想や政治信条により人を取り締まる制度を即刻廃止させている。
飛躍した義務の一例は今となってはの視点であって、戦時中は当たり前のことであった。徴兵義務の時代もあったように、かつては、「嫁の義務」というものもあった。明文化されたものではないが、長男家に嫁ぐ嫁にはそれなりの義務と大きな覚悟があった。女は定まる家はないといわれた時代のことで、今の時代に「嫁の義務」などというものはおそらくない。
どこかの若い夫婦が自分に問うなら、「夫婦が幸せになること」つまり、嫁の義務は夫の義務でもあるというだろうか。同じように、嫁の義務は姑の義務である。上手くやるためには、双方に等量の潜在的な義務、あるいは使命が存在するが、そのことは友人関係にも言える。片方が義務を果たすのに、もう片方が義務を果たさないことで、果たす側に不満がでる。
それらを考えると、無駄な義務などは一切排し、合理的に接することが最善と思うが、「それでは世間が…」という縛りに拘束されるのが、あらかたの日本人。もう一つ、嫁いだ先での嫁の義務は、実の親より義理の親を大切にすることだろう。「大切にする」というのはいろいろな解釈があるから、わかりやすく言うなら、「優先する」というのが適切かもしれない。