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Channel: 死ぬまで生きよう!
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書き綴ることが「展望」となる ②

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人目を気にしないのは自分のために生きるからだ。「自分の生き方を人からとやかく言われたくない」ではなく、「言われても気にならない」のは真の自分を生きる人に共通の思い。人の目線が気になる人は、まるで他人のために生きているようだから女性に対し、「自分に正直に生きたらいいのでは?」といった。できるできないに関係なく「自分を生きる」法則だ。

「自分に正直に生きる…」。言葉の意味は分かるだろうが真意は理解はできないかもしれない。なぜなら、彼女が自らが思考して得た考えでなく、所詮は他人の受け売りで、自ら考えて答えを出すこと=理解であろう。他人から正しい答えを得る場合もあるが、「正直に生きたら?」と意見されるのと、「正直に生きよう」と自ら答えを出すのとはは雲泥の差がある。

考えを行動に移せばさらに得るものが加わる。理論と実践の違いは行動すれば分かる。自らに忠実に、正直に生きていけば、次々と試練にぶつかる。試練というのは、他人から叩かれ、罵倒されることで自身のエゴが蹴とばされ、あるいは踏んづけられ、自分で自分がどうにもならないへとへと状態になり、これ以上は生きていけないくらいに追いつめられる。

そこまでになった時、「この際もうエゴを捨てて生きる以外に自分の生きる道はない」という悟りが湧いてくる。こういう悟りは、自分を誤魔化して生きる人間には、絶対におとずれない悟りであとう。自分は佐藤愛子が好きで、彼女は自らに正直に生きてきた人である。傲慢な母親に苦しんでいた時、彼女のエッセイを読んで心の重しが吹っ飛んだことを忘れない。

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正々堂々生きる道を教えてくれた人である。彼女は実存の人である。94歳にしてますます実存たけなわの人である。おばあちゃんという感じがまるでない。したがって実存の対義である観念を嫌っているところは自分と同じである。観念という語句そのものが宗教用語であるが、哲学的には、「人間が意識の対象について持つ、主観的な像」などと解されている。

観念を排して自らに正直に素直に生きる彼女は、時に人から非礼と誤解されたり、頭がイカレているのではないかと思わせる言動も多だある。「母のバカバカしさに20年耐えました」と、娘の言葉が笑わせる。佐藤が夫である田畑麦彦との離婚の顛末を書いた小説『戦いすんで日が暮れて』の最後、夫に向って「あなたは人間じゃないわ、観念の紙魚(しみ)なのよ」という。

本当に言ったのかどうかは分からないが、佐藤がこの言葉を書きたかったのは伝わる。「作家は何を書いても結局は己を語るという結果に成る」と彼女はいう。母親と喧嘩して家を出たことで自分で稼ぐしかなかった佐藤は、電車賃を節約するために長々と歩いたことで足腰が鍛えられ、それが長寿につながっているのかもしれない。楽をする現代人は足腰から弱っていく。


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「エゴを捨てればいい」。言葉では簡単に言えるが、それがどれだけ大変であり、苦しみを伴うかを言葉で示してみたが、実際に体験すると言葉以上の苦しみを実感する。人間が、ズルく、汚く、愚かな行為を排除するのはどれだけ大変であるかは、やったものでなければ分からない。「少しでも他人より得をしたい」という、我が身を利するのを否定するわけだから。

物事を成し遂げようと努力をするときは、多少なり問題があっても徹底してやらなければ、人間はどこかに隙間を見つけてそちらに流れてしまう。だから苦しい。自制という苦しみは他者からの強要より勝るといった女性がいた。確かに言われた通りをやるのが楽なのだろう。こういう葛藤は誰にもある。先日、死刑のために出頭しなければならない夢にうなされた。

あれは本当に苦しかった。本質は自由であることの苦しみである。独房に収監されて、死ぬ日を待つ苦しみより、市井の中で自由を横臥しながら、日時を決められて主体的に出頭する、その時間の迫りに自分はうなされていた。これほどの苦しみがあるだろうかという疑似体験であったし、まさに夢でよかった。夢の中であれほど思考をしていては脳も休めなかったろう。

自分は死刑制度に対する固定観念はない。夢は現実ではないが心の投影であるなら自身の中にこうした強迫観念が存在する。たとえ無意味と思われることであっても、その不合理性を本人は意識せざるを得ないのが人間である。それらのことが自己の意志に無関係に絶えず頭の中に浮かび、除去しようとすれども取り除けない状態が強迫観念といわれるが、「死刑」の是非は難しい。

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夢の真意は、「死刑を傍観する側と受ける側の両面の葛藤を超えて答えを出せ」という指令だろう。自由主義者の自分は観念に縛られた人は不自由と思うが、「有る」と思い込んでる固定観念をぶち壊すためには思考はいらない。自らの内面に向かって、問い掛けることだ。考えるではなく、「有るのか」と問いかけることによって、自分の中の固定観念が壊れていく。

内側に意識を向けて問いかけることで何かが変わっていく。だから、何かを変えたいときには、思考するより自らの内なるものに問いかけるのがいい。わかりやすくいうなら、自身の固定観念に疑問を持つこと。現実というのは意識の投影であり、一切は内面で起こっている。仏教用語の観念の本来的意味は、仏を観察思念すること。ゆえに、「観念」の対義は「実在」である。

観念的なものを好む人、観念的な生き方しかできない人もいれば、生の実在感を求める者もいる。観念的思考というのは現実から如何なる源泉を得ていないことを考えれば、現実からの抽出に関与する抽象的思考の方がマシであろう。現実的な親子関係の対比として観念的な親子関係というものがある。現実は善くも悪くも現実だが、固定観念的な親子関係には弊害がある。

例えば毒親への罪悪感を抱えたまま大人になる者もいる。天才的頭脳を持ちながら幼い頃に負ったトラウマから逃れられないウィルと、心理学者ショーンとの心の交流を描いたヒューマンドラマ、『グッド・ウィル・ハンティング』。ショーンがウィルに、「It's Not Your Fault(君は悪くない)」と何度もいい続ける場面は圧巻。ウィルはショーンの言葉で解放される。


人間はいかなる世界に居ようとも、固定観念に縛られている限り、「自分が正しい」、「自分のいる世界が安心」と思い込んでいる。トラウマから脱せない青年たちも、苦しみながらもそれでも自身の世界から逃げないでいる。それは何故か?自分以外の考え方や世界観を極力排除しようとするからだ。だからこそ、「固定観念」という言葉が存在するのである。

拠り所とする世界が固定観念であるのを気づかぬ人は多く、気づいてもそこから脱せない。その極めつけが宗教という観念世界で、その世界がどれだけ生きづらいものか、これはもう離れた者でなければ分からない。観念的親子の弊害とは、毒親から擦り込まれた親を主体の親子関係という固定観念である。親軸を自分軸に変えるべきだが、そのことで罪悪感は持たぬこと。

子どものうちは親に依存するが、子どもが大人になった時に親が子どもに依存する状況なら、子は必然的に親不幸にならざるを得ない。自立とはそういうものだから、自立を阻む子どもべったりの親の依存心は批判すべきである。精神的、肉体的、経済的・物質的においても、親の加護から抜け出て一人で生きていくのが自立で、こんなことは親子関係の必然である。

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