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Channel: 死ぬまで生きよう!
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書き綴ることが「展望」となる

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若き頃の自分は卑しさの塊だった。情のもろさが災いしてか、感情に左右されることなく物事を理性的に判断することができなかった。できているつもりでも、若さゆえの思い込みに過ぎなかった。他人から物を戴く立場にあっては、当たり前に受け入れた。「地位が人を造る」というが、地位はまた人を傲慢にする。よほど戒めぬ限り。人間は醜さを増幅させて堕ちていく。

ズルく醜い人間が目標ならそれもいいが、そういう人間を嫌悪するようになっていく。自分を客観的に捉えたあの日を思い出す。そこには、欲深く醜さ丸出しの自分がいた。少年期に許せなかった母と重なった自分には、母の遺伝子が受け継がれているように感じられた。ズルく、浅ましく、理知の欠片もない、そんな母と自分が同じことをやっていると気づかされた。

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自分の中に母の遺伝子が存在すること自体、たまらなく嫌でならなかった。あれほど嫌悪した母である。それに気づいた自分は、自分の中に巣食う母を追い出しにかかる。反面教師の極意というのは、嫌悪する対象を徹底批判することである。人間というのは、時々の都合で善悪良否を決めるズルさを持っている。無意識であっても人間は、実は自己正当化の名人である。

「あんな人間には絶対になりたくない」という対象批判は、「あんな素晴らしい人間に近づきたい」という対象の模倣以上に即効性があることを自分は知っていた。「良い人の真似る」より、「嫌な奴を真似ない」ことのほうが行為として楽。それほどに人間の嫌悪とは激しい情動である。ズルく愚かで浅はかな行為を許せなかった少年も、やがて汚れていく。

大人になる、社会に生きるとは、そういうことかも知れない。確かに人間が現に自分があるところのものであり続けるのが一番安泰である。人間にとっての困難は、現にある自分から脱し、彼方に向かって自己を投げかけること。そうした自分を変革することが、生の実在感を手に入れることに思えた。世の中には、人であれ、物であれ、「捨てて得るもの」が必ず存在する。

そのことに気づいた人間は幸運である。捨てるべきものですら捨てられず、あるいは捨てるべきものを後生大事に抱えて、悩み苦しむ人間の何と多きことか。捨てることで楽になるものを捨てられないのはなぜ?おそらくは、未だ在らぬ彼方へ自己を投げかける不安だろうか。手中に在るものを手放すことの怖れであろうか。ズルさは「得」と認識されるが、その理由は分かる。

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それが人間の実体というのも分かる。人間の本質は汚く、綺麗に生きるのは勇気がいる。「損して得取れ」という言葉の意味が若い頃に分からなかった。「損は損だろ?得であるハズがない」という理解しか得れなかったが、「得」は、「徳」が変化したことを知る。ならば、「損して徳取れ」である。が、「徳」が何かわからない。そんなことから思想書を手にする。

バーゲンセールに群がる人たち、試供配布品を求めて並ぶ人、試食品をおやつ代わりに子どもに食べさせる親、一等が多い宝くじ売り場の長蛇の列、電車の空いた席の奪い合い、他人の財布を宛にしたタダ飯、卑しさ剥き出しの無節操な歓待など、得の欲求を戒めることが徳なのか?「得」の対義は「損」だが、損得勘定に縛られないのは徳ではなかろうか。

節操なき「得」を批判すれば非難を受けることもある。「何を気取ったことを言ってるんかね~」というのも人間である。批判とは自己主張と思っている。他人がする他人の批判はその人の自己主張。そのように思えば他者からの批判や非難は他者の自己主張と気にならない。同じ100円の商品が80円ならいいに決まっている。自分もそうするが、列に並んでまで求めない。

一切は個々の価値観である。美味しい定食屋に並ぶのもそうだが、自分は信号待ちも嫌がる性向で、よく言えばテキパキ屋、悪く言えば落ち着きがない。だから並ぶことは実損と感じる。実利・実損は節度の問題もあるから、何事かの答えを他人に求める人は付和雷同志向が強い。他人の悩み事への自分の答えは、あくまで自分にとって正しく、他人には当てはまらない。

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そう思うようになった。よって、「あくまで自分場合…」と前置きを付け足すようにする。自分にできて人にできない、他人ができて自分はできない事は当たり前にある。ある女性からこう問われた。「どうしたら、人が自分をどう思うか気にならなくなりますか?」。他人の目を気にする人は多いが、他人の視線をまるで気にしない自分に問うのは、実は筋違いなのでは?

「あなたがそうだから聞く」というが、自分にできることが他人にできるのか?その女性にはこう答えた。「自分に正直に生きたらいいのでは?」。言葉の意味をどう理解したか分からない。自分に正直に生きられない女性は多いと思いながらも妥当な答えである。「正直」が難しいなら、「エゴを捨て去ること」と言うほうが理解しやすかったかも知れないと後に思った。

なぜなら、「正直に生きる」とは、「自分を誤魔化すのを止める」ということ。自分を誤魔化すのはそれなりの理由や事情があるからで、女性にすっぴんで街を歩けといってるようなもの。女性の分からなさは常々思うこと。将棋仲間宅の前庭で立ち話をしていたところ、買い物帰りの奥さんに遭遇する。紹介されたので挨拶をすると、「あら、どうしましょう、恥ずかしい…」。

口を手で覆い隠して寝ぐせがついているわけでもない髪を撫でながら、「普段はあまりお化粧しないんです。ごめんなさい」と、はにかんでいた。年齢は70前といったところだが、これが自分の思う女性の不思議さである。男からすれば、まさに別の生き物でしかない。初対面の人であれ、不意に不用心の素顔を見られることの羞恥は、どうにも男には理解できない。

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女性が男とは別種であるなら、女性からの悩み相談を男目線で答えるのがどうして適切であろう。以前は思わなかったことだが、安いチラシを見つければ、隣町にまで出かけるというのが主婦感覚であるらしい。こうした防衛本能と男の大雑把加減は言い合いになってもオカシクない。夫と妻の喧嘩ネタは尽きぬようだが、「一度も喧嘩したことない」といえば不思議がられる。

男と女、夫と妻は、喧噪あってこそ普通であるという。だからか、「お前のところはできた女房だ」とか、「喧嘩したことないって、それはできた奥さんでしょう?」などといわれる。自分が褒められることはないが、妻の、「できた人」にも反論はない。自分は自分に合った相手を妻と娶ったに過ぎず、「夫唱婦随」を信奉する自分には、眼鏡に適う相手が必要だった。

世の中のこと、書けど書けどもキリがない。それが世の中というものの広さであろう。気取ったエッセイなど書いても屁のツッパリにもならぬと、人間を抉りもし、炙り出してみる。そうした視点で事物を見るのは、こうした書き物の恩恵なのかもしれない。対象に目をやりそれについて考え、より確かな自分の在り処を発見する。書く行為はまた、遠きを見近きを見る。

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