「いろんな自分がいるのを認識させられる」と書いた。別の言い方をすれば、「人間はさまざまな顔を持つ動物」。それこそ人間の1日をとってみても、気分のいいときはニコニコ笑い、不機嫌な時は言葉少なに押し黙る。ケンカ気味に言い合いをしたり、着飾ってご満悦だったり、トイレで沈思黙考しながら何を考えているのやら…、文章からもさまざまな顔が感じられる。
確かに自分が書いたものには違いないが、書いてるときと日を改めて読むときとまるで違った感じを受ける。何を書き、何を行為したとしても、それらはあくまでその日その場の雰囲気の自分であって、その日その場の自分は二度とない。だからか後日に、「どうしてあんな風なことを書いたのか?」となる。悔いているわけではないが、いろんな自分を発見する。
いろんな自分と付き合うのも自分だ。他人から悪意に満ちた非難や中傷を受け、反論するときはそういう文になる。正常に戻れば何でもないが、精神が荒れれば文も荒れるもの。まあ、他人の中傷は笑い飛ばすしかないし、茶化した応答を楽しんで書いたりする。以前は若さゆえにか腹の立つことはあったが、昨今は何を言われようがヘタレ中傷に動じることはなくなった。
いろんな自分はどれも自分で、変幻自在の自分をすべて知る相手はこの世に存在しない。だから、真面目な人が凶悪事件を起こす。さて、親孝行には無縁の自分だが、周囲の「親不孝」の声にも、「勝手に言ってろ」と動じなかった。弁解しなかったのは、人を黙らせる必要も、分からせる必要も感じなかったからだろう。自分の問題であって、他人の問題ではない。
自分と同じ考えを共有する人を求めたりはないがいても不思議でない。異にする考えもあれば同じ考えもあり、だから同士となる。誰にもない独自の考えを躊躇うことはない。自信とは驕り高ぶることではなく、自分を信じるという文字そのもの。親孝行を要求する親を自分は批判を超えた非難をぶつける。親や他人がそれを親不孝というなら、エゴ人間の称号を贈るだけ。
子どもは親への忘恩を戒められるが、ないならないでいいではないか。恩着せがましく振る舞ったところで、恩の押し売りだろう。子どもに自然に湧き上がる子育てをすればいいだけのこと。ということ。「恩着せがましい親」は思慮なき親である。そんな親を尊敬できるハズがない。「そういう恩着せがましい言い方しかできないんか?」と、何度親に言ったことか…
子どもに指摘されて自らの恩着せがましい言動に気づき、「よくないことと」改めるような親は利口な親。多くの親は子どもの発信に耳を傾けないのは親という権威なのか?子どもの言葉に素直に耳を傾ける親は子どもと共に成長する親ではないかと。その子も行く行くは親になるわけだから、子ども時代の親に対する矛盾や問題意識は、善い親になる予行演習である。
問題意識とは親の批判である。「自分はこういう親には絶対にならない」という誓いすら生んだ少年期を思い出す。「批判が自分を作る」も自己啓発法である。批判を嫌う者は表面的で薄っぺらい人間である。何事もありのままに見、ありのままに感じることこそ大事なこと。「親を非難する人間にろくな人間はいない」という人がいるが、彼の目も耳もお飾りに過ぎない。
自分が親になって子どもの批判を恐れる小者は、自らをそういう考えにしておく。他人を批判しない人間は、実は他人の批判を怖れている。「あなたのことも言わないから、私のことも言わないで」という女がいた。「私のことで気づいたことは遠慮なくいってね」という女もいた。後者に向上心を感じたのは自然なこと。「私は人の批判はしません」という女がいた。
本人はそれを立派なことだと思っていた。自分の勇気のなさを、物は言いようであるが、そんな言葉に騙されない者もいる。他人からも立派な人間に思われたい、そういう気持ちも伝わってくる。ポジティブな批判精神もなければ勇気もなく、表面を着飾っていい女だと言わんばかりの浅薄さが透けて見える。それも人の生き方なら避ければいいだけ、口に出すこともない。
一般的な親は子どもの孝行を喜ぶものか?喜ぶのが悪いと思わぬが、何がそんなに嬉しいのかよく分からない。大事にされてると感じるからか?子どもべったりの依存より、何かに打ち込む充実感を見出すことは山ほどあるのでは?そんな風に生きる自分からすれば、子どもに孝行される喜びを感じる暇はない。楽しみは能動的であるべき、受け身では思いに適わない。
「親孝行だの、親不幸だの、言葉はあっても行為は存在しない」と思うからか子どもにそう伝えている。「そんなことは考えるな!」である。子どもに何かを貰って感激する親も良く分からない。自分なりに感激することは山ほどあって、だからかそんなことに感激してる暇はない。自分に言わせると、すべては暇人の所業である。人は自ら楽しみを見つけたらいいのよ。
親になった頃から、親は子どもに義務しかないとし、親が子どもに権利を要求する何があるのかは、以前も今も何ひとつ浮かばない。だから「ない」ということだ。義務といっても成人になるまでで、そこからの親子関係は、対等な人間関係としての親子である。こういうスッキリした考えは、ともすればべったり慣れ合った親子関係を避け、良い意味での距離感がある。
「独立自尊」とはこういうものだろう。子どもが巣立てば親も独自の楽しみを見つけ、人生を楽しむ。子どもに親孝行を要求しないでいても、子どもが主体的な行動をとる場合がある。それをどうするか?いろいろあろうが自分の場合は、他者に何かを施し、相手から謝礼など差し出されても受けないようにと決めているが、それと同じ姿勢でいることは何ら難しくない。
他者からの自発的な謝礼であれ、子どもの親孝行であれ、受けないことは可能である。「気持ちだけは有難く戴いておく」という言葉は、決して罪ではないし、礼を逸することではない。相手の気持ちを慮るなら、その言葉の前に、「折角のご配慮に失礼かとの思いもありますが、気持ちは十分伝わりますので…」の言葉を置いてもいいし、子どもならフランクに伝えられよう。
謝礼や歓待の類は一切受けないよう決めている。理由はいろいろあるが、最大の理由は、過去、そうしたものを暗に要求する卑しい自分に気づいたからである。人間の卑しさは自分で意識しないと、「自己正当化」に埋もれてしまう。ここに人間の卑しさを隠匿せんとするズルさがある。卑しさとズルさを拒否するためであり、そういう自分から脱皮するために始めた。
「卑しさ」、「ズルさ」と分かりやすく述べたが、もっと奥深い情動が潜んでいる。自分は情に厚く、感受性も高いがゆえに感激屋さんである。よって、他人からそういうものを受けると判断を謝ることも多かった。戴く相手とそうでない相手と同等に見ることのできない「情」を自らに発見した。冷静に、公平に、正しく物事を判断するために課した啓発法である。