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人は罪を犯すもの 「親不幸の定義」

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「親孝行」を妄信する者は、「親不幸」を罪という。親から直々に、「親不孝者」といわれたり、親を批判すれば周囲から言われり…。世間の価値基準など今は黙って聞いていれるが、若いころは反発した。「何が親不幸なんだ?お前のいう親孝行が何かを説明してくれんか?」などとつまらん質問をぶつけたりもしたが、つまらん問いにはつまらん答えしか返ってこない。

世間的価値基準からみて、「親不幸」の誹りを免れない自分だ。そんな自分も子どもの親であるなら、被親孝行・被親不幸の立場でもあるが、「それ」って何?が正直なところ。例えば、「いじめ」や、「セクハラ」の定義は以下決められている。「いじめ被害者がいじめと感じること」。「セクハラ被害者がセクハラと感じること」。つまり定義とは、「被」側の実感である。

ならばこういうことも起こり得る。同じことをAにやればいじめ、Bにはいじめとならない。セクハラも同様である。「定義」とは決め事だから例外はない。つまり、万能ではないことになる。長い期間会ってない級友に会うと、「お前どうした?まるで死ぬ一歩手前のしょぼくれ爺さんじゃないか…」。男同士なら普通の掛け言葉で、変に相手を持ち上げたりしない。

同じことを女性にいえば気分を害することもある。腹が立っても顔に出さないが、傷ついたりもあろう。社会には女性に向けた言葉と、同性に向けた言葉を違える必要があり、それが社会人のたしなみである。これは定義というよりモラルであるが、「いじめ」や、「セクハラ」は法に触れる以上、定義づけが必要となる。「法」は決め事であるゆえ、矛盾点もあろう。

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「親孝行」に法の定義ではない。だから何が親孝行であるかは個々で決めること。Aの親孝行はBとは違う。Cの親不幸はDにとって何でもない。「いじめ」や、「セクハラ」と同様に親自身が感じる「親孝行」、「親不孝」なら、子どもは混乱するだろう。自分は子ども言った。「何が親孝行で何が親不幸などは一切ないから、親孝行は必要ないし、親不幸は大いにやればいい」。

親孝行を望む親、親不幸を望まぬ親、当たり前かも知れぬが、こういう当たり前のことに疑問を抱く自分だ。どちらも子どもへの要求である。親の子どもへの要求は、「願い」という形で、子ども自身の幸せを望むことである。だったら、「親のことなんか考えなくていいから、自分のこと、自分の家族のことを考えればいい」というのが親の理知ではないだろうか。

あるいは本能というべきもかと。もっとも、本能には欲もエゴもあるから、それらを排除した理知である方がいい。子どもを思うあまり、それが見返りを求めるようでは無償の愛とは言えない。「親孝行を望む」、「親不幸はするな」という考えそのものが親のエゴに他ならない。真に子どもを活かすためなら、親は消えてなくなる方が良いし、もしくは関わらないことだ。

巷にいう親孝行や親不幸が、親自身が感じることだとするなら、親の性格によっては子どもを無視した自己中心的な要求もあろう。それも親孝行と感じるなら、その子は完全に親に毒されている。子どもを自分の意に添わせたいという身勝手な欲求から逃れられず、親に支配され、毒された人間が親から自立した家庭を持てるのか?自分が嫁なら、「こんな夫は冗談じゃない」。

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日本人には、「恩」という受動的に蒙る義務が存在する。「仰げば尊し我が師の恩」ではないが、「親の恩」以外にも、天皇から受ける、「皇恩」、主君から受ける、「主恩」の他に上記した、「師の恩」などがある。鶴や猫にも、「恩返し」を求めるのが日本人的情緒である。「恩」を受ける側から見れば、「忠」、「孝」、もしくは、「任務」、さらには、「義理」という日本的な情もある。

「義理」を正確に理解するなら、自分の受けた恩恵に等しい数量だけを返せばよく、また時間的にも限られた負い目といえる。「義理」の中にはやや強制力のある、「義務」という行為もある。こういうものがさらさらない合理的思考の欧米人にとって、「忠孝」や、「義理」の理解は至難である。したがって日本人を、「過去と世間に負い目を負う者」と定義することになる。

親に対する孝行や、親戚・友人・知人への義理、師への義理をこよなく果たす人間は、自分を善良な人間と思っている。本人がそう思いたいから思うのは何ら構わないが、善人(と勝手に思う人間)が厄介なのが、「善」であるがゆえに、「悪」という対義が人に下されること。人間の善悪というももは、環境や場合によって変わるものだが、そういう客観的な思考もない。

「現在利益」を求めないで他人にこよなく尽くすからといって、「善良な人間」とは言い切れない。ところが、勝手に善人と思う人間の何と多きかな。厄介だし、付き合い難い人間の類である。善人でも何でもない自分だが、時にその様に受け取られるような発言もし、行動もする。無理に非善人ぶる必要もない、わざに悪態をつく必要もないゆえ、それも自然な行為であろう。

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4月の末だったか、突然以下の内容のメールが舞い込む。yahoo mailなら古いものでも残っているが、goo mailは2014年の暮れにシステム変更のため、それ以前のものがすべて消去となり、バックアップは取らなかった。差出人の記憶はまるでなかったが、近年はいかにも知人を装った詐欺商法メールもあり、控えめで返信を求めないところに詐欺メールの違いを感じた。

が、確かめる意図もあって、「どういう会話をしたのかlogを送ってくれませんか?思い出すかも知れません」と用心も兼ねて返信したところ、自分が書いたとみられるコピーが添付されていた。これって自分の文?という内容だった。仰々しく、型ぐるしく、過去のblogなどを読み返すときも、「これって自分?」と思うことは多だある。いろんな自分がいるんだと認識させられる。

が、表記した文の自分が相手にとっての自分である。人と人は長い期間、話し合わなければ見えてこないものだろう。が、あまり自分のmailに嫌気がさし、「確かに自分の書いたメールです。改めて読むとチョー真面目くさって、おそらく自分としては無意識でしょうが、いわゆるネコかぶりかも知れませんね~」と言っておく。いろんな自分がいるのは承知であるが…

すると相手も、「私も過去メールの返信を読んでいると、これ本当に私⁉︎って感じるくらいネコかぶりでした。笑」の文を読みながら、「人は人に合わせるものかと」、「本意や真意とは別の会話もなされるものかと」、人と人の〝不思議さ加減〟を感じてしまう。「人と人は打ち解けてナンボ?」だが、自身を乱したい願望は実生活よりはメール相手に委ねるものかも知れない。

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「いい子ぶる」、「ネコを被る」というのは、人間が社会に管理されていることの虚しさであろう。人間は社会的な動物である。その中で、「自由とは何か?」を問われれば、「自由とはやりたいことをやること」という模範解答はあっても、これは、「どこまで自分を捨てきれるか」という命題を突き付けられていることでもあり、「いかに自由が難しいか」に、収束する。

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