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人は悪を犯すもの 「法の定義」

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そのことについて考えたことはあった。考えるまでもなく「悪」を行為しない人間などいない。しかるに「悪」とは何?何をもって「悪」という?世の中の「悪」について書き出せば何でも、「悪」になるほど範囲は広い。同様、「善」が何かも難しい。例えばこういうことを耳にする。近所から凶悪事件の犯罪者が出た場合になど、加害者を知る人々はこのようにいう。

「真面目そうでキチンと挨拶もするいい人ですよ」と、概ね評判は悪くない。なのに凶悪事件を起こしたなら、「いい人」ではなかったのか?それとも、「いい人」なのに凶悪事件を起こすことになったのか?どっちであるかを言い当てることなどできないし、そんなことはどっちだっていいことだ。凶悪事件を起こしたことで、その人は、「悪い人」と決めつけられる。

そのように見られがちだが果たしてそうなのか?自分にいわせるとそれも違う。凶悪事件を起こしたその人を悪人とするのではなく、実際は善人が起こした凶悪事件かも知れないからだ。「悪人だから事件を起こす。善人は事件など起こさない」というのはいかにも短絡的で、「善人も凶悪犯罪を起こす」、あるいは、「悪人であっても善良な行為をする」と考えるべきだ。

「表は裏であり、逆もまた真である」。何事も定義づけるのは難しい。二等辺三角形に二辺の長さが等しいのを証明することはできない。なぜなら、二辺の長さが等しい三角形をそのように定義しているに過ぎないからだ。ある哲学者は、「悪とは弱さから生じるすべてのもの」と定義した。そのことを我々は理解できるのか?映画にもなったが、こういう悲しい事件があった。


重度の障害を持った子どもを養育してきた親が高齢になり、子どもの先行きを案じ、悩んだあげく子どもを殺してしまった。親のこれまでの労苦を知る周囲の人々はこの親に対して、「殺人罪で裁かないでほしい」と、署名嘆願運動を開始した。 ところがこうした動きに対し、身障者団体の人々はこの嘆願運動への批判を始めた。これは一体どういうことなのか?

こうした嘆願運動は善いことなのか?悪いことなのか?考えれば分かることだが、すべての人がこの嘆願運動に賛成したのなら、「重度障害の子どもを持つ親は、子どもを殺しても殺人罪で裁かれることはない」ということになる。これを身障者の立場、つまり殺された子どもの側に立てば許されることではない。したがって、殺人も嘆願運動も、「悪」ということになる。

これこそが法の主旨である。が、「法外の法」という視点で見れば、重度障害の子どもを殺した行為は、「弱さから起こしたもの」である。世の中でもっとも恐ろしいのは、「すべての人が法に殉じること」と同時に、「すべての人が法を無視すること(無法状態)」である。ニーチェは悪をこう定義し、フロムもまた、「すべての犯罪は人間が孤独でいられないところで起こる」とした。

いずれの思想を推し進めるとナチズムの社会心理を分析したものとなる。ナチスのやったホロコーストは、弱い者(つまり知能の遅れた人)、身障者、先天的に劣っている人たちは子孫を増やさぬよう、さらにはゲルマン民族の優秀性を保つために、ユダヤ人を強制収容所へ送り大虐殺を行った。ニーチェの『善悪の彼岸』とは、平たく言えば「善悪の境界線はない」である。

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「法」というのは人間が決めた確固たる不文律であり、なんびともこれを破ることはできない。したがって裁判においても、「法」と、「法外の法」との両方が勘案されて判決が下され、情状酌量という人間味あふれる判決となる。人間社会において「法」は大事であるけれども、「人間味」ということも大切だ。介護疲れは決して弱音ではないが、対象者を殺すのは「弱さ」である。

人間においては、「善悪」の正しい判断及び行使は難しいこととなるが、「善」とは、愛があること、存続させること、活かすことと解釈するなら、「悪」とはその対義である、愛のないこと、破滅させること、殺すこと、となる。また、実存主義は「客観の不在」の哲学であり、「客観的に正義と言われるものは、定義不可能である」という立場から出発している。

ニーチェの「神は死んだ」という言葉は一見すると、無神論的で悲観的な言葉に聞こえるが、エメラルド・タブレット(錬金術の基本思想(あるいは奥義)が記された板)によれば、「上なるものは下なるものが如し、下なるものは上なるものの如し」なる表現を見る。仏教思想にいう「八正道」にいう、正しい行い、正しい見方、正しい…というのは、一体何を正しいというのか?

「正しい」が何かを分からずに、そんなことができるわけがない。よってか、「禅思想」に至っては、「仏陀を殺せ!」という言葉すらも出てくる。これはニーチェのキリスト教批判にいう、「神は死んだ」と同じことであろう。しかるに世俗において我々は、隣人・知人との関係を大切にし、父母を敬い、困っている人に手を貸してあげることを、美徳としているのである。

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「挨拶」を例に考えてみる。多くの学校の校門で、「あいさつ運動」なる取り組みがなされている。「挨拶という習慣は学校が教えることだ」という保護者がそうさせているのか、教師の主体的な実践なのか分からないが、こういう形式的な取り組みはいかにも日本人的発想だ。「挨拶をする」のはなぜに善いことか?凶悪犯ですら近隣住民は、「挨拶できるいい人」であった。

これを別角度でみれば、「挨拶できたから善人とはいえない」という風にも考えられる。理屈や屁理屈はともかく、自分は、「挨拶は善いこと」だと思っている。理由はいたって単純、「相手の存在を認めること」であるからだ。出会って挨拶しないで無視する場合を考えてみればいい。挨拶しないで無視する理由は、「相手の存在を認めたくない」からではないか?

気がついても知らぬふりをしたり、人によってはわざと道をそれたりして、その人と出会わぬようにする。「相手の存在を認める」ことが挨拶で、それを善というなら、こういう行為は悪であるのか?ある人は言うだろう。「たとえ嫌だと思う人間でも挨拶をするべき」だと…。ある人にはある人の考えであるが、自分はそうは思わない。ただし、嫌いな人間でも顔見知りなら頭くらいは下げる。

それは社交辞令であっても挨拶ではない。嫌いな人間に好かれても迷惑するので愛想をしない。が、逆に相手が自分を嫌っていても、自分が好ましいと感じる人物には接していく。自分にとっては、「善い人間」という理由がそれをさせる。道で知らない人から挨拶されることがある。どういう理由かなどと考え、人によってはその理由が垣間見えることもある。

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子どもの場合は決められていることをやっている。挨拶と一緒に笑顔までいただく場合、相手から滲む人柄を感じたりする。道ですれ違う相手に儀礼的会釈をするものとの思いの人なら、そのように伝わってくる。自分はしたり、しなかったり、その時の心情に自分を委ねている。決めつけもない強いることもない。素通りする関係だから気分で相対してもいいと思っている。

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