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書き綴ることが「展望」となる ⑥

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「さんざん親の悪口を書き綴って、なんなんだこのブログは…」と感じる人はいるはずだ。そういう人には気分が悪かろうし、内容は戯言でしかなく、親批判の親不孝者としか映らないだろう。斯くの人物にとっての親とは、心の支えであったり、拠り所であったり、できることなら同じ境遇に在ったらの思いは消えることはないが、子どもは親を選んで生まれてくることができない。

心無い親の下に生を受け、虐待されて心に傷を負った人たちや、死に至らしめられた子どもたちを思えば、自分なんかはるかに救いである。心ある立派な親に育てられた人も、世の中にはそんな親もいるということを知ることは、何の得にもならないにしろ、損になることもないだろう。世の中で起こることはすべては現実である。善くも悪くも現実であり、悪いことに蓋をすることもなかろうし…

子どものころ、父から戦争の話を聞かされた。聞くのが好きだったからか、父は戦争の話をよくしてくれた。決して非道で残虐な話ではなく、戦争に憧れる自分の心情を理解した内容だった。戦艦や駆逐艦や巡洋艦という鑑別の説明も子どもながらに理解に努めた。子どもは棒きれを手にすると、「チャンバラごっこ」をしたが、いつしか「戦争ごっこ」なるものを始めたのはテレビの影響である。

『コンバット』という戦争映画は、60年代を代表する海外ドラマとして人気があった。4~5歳のころに父から聞く戦争の話は観念のようなものだったが、テレビで観る戦闘シーンはなぜかカッコイイものだった。刀が機関銃に格上げされただけでも、男にとってはたまらない魅力である。サンダース軍曹の愛器、「トンプソンAMサブマシンガン」という名はすぐに覚えた。

「AM」はオートマチックの略だというのも理解した。あれが欲しくて欲しくてたまらなかったが、終ぞ手にすることはできなかった。話がそれたが、まあいいだろう。「書き綴ることが展望となる」という表題は便利なもので、何を書くのも自由であるからだ。拘束を嫌う自分は表題に拘束されることも嫌うので、書いた後で表題を考えることにしているが、これなら何を書いてもお咎めはない。

来場者のお咎めを気にするというのではなく、 ブログには「アクセク解析」というのがあり、書き主に見れる。それによると、どういう検索ワードで来場したか、自分の記事を何人が見たかを知ることができる。ということは来場人数を増やすためにはいかに「表題」のウエイトが大きいかということになる。確かに、自分が読みたい記事をワード検索して任意にブログを選ぶことになる。

そう考えると自分のブログは訪問者にとって宛が外れることもあろう。だからか、いっそ表題はない方が自他のためかと相成った。いつか気分が変われば元に戻すだろうし、決めたり限定するのも好きではない。すべては自由に柔軟に、なすがままに…。戦争への興味は子ども心の他愛のないものから、テレビ映画や戦争映画から、やがては戦争体験記へとフィクションから現実へと移行する。

沢山の戦争体験手記があるが、山本七平に触手が動いたのは、彼の戦争体験を通した日本人観や独自の日本人論に評価が高かったこともある。彼の『私の中の日本軍』(上・下 1975年文藝春秋刊)は、日本陸軍を解剖した所見としては他に例をみない鋭利さで書かれ、広い読者層を得た。山本が戦場で筆舌に絶する労苦を重ねたことはこれらの著書で明らかだが、以下の記述も心に残る。

「内地の犠牲になる、自分が命を縮目ればそれだけ家族の命が延びる、そう考え、そう考えるだけで自己を支えて、最後の最後まで元気だった彼は、結局、私の犠牲となり、自らの命を縮めて私の命を延ばした。前の日に、『オレが手を貸すから…』と言って、無理矢理にでも前哨まで引き揚げさせれば、彼も生きて内地の土を踏んだであろう。それをしなかったことは永遠の痛恨であり、またそれをせずにさらに救出も打ち切ったことは、どう理屈をつけても、結局、生涯癒えることのない心の傷となった。」  (一下級将校から見た帝国陸軍)

戦争体験記というのは戦争への憎悪、上官への悪口・悪態となるのはやむを得ない。それだけ戦争体験が凄惨であったからだが、彼らの意図は決して戦争への憎悪・上官に対する悪口に固執するものではなく、いかに戦争の真実を後世に伝えたかったである。自分も、実母への悪口・悪態に固執するではなく、労苦体験を含むあった事実を親であろう人や、親になる人の気構えとして書いている。

優れた親もいれば、尊敬できない親もいる。それをまとめて、「どんな親も親は親」というのは、味噌も糞も一緒といってるようなもの。味噌と糞が違うように、善い親と毒親とはまるで別物だ。人を利用しようとする人間が性悪であるように、子どもを利用する親が善意であるはずがない。人間は性質が悪いこともあってか、「子どものため」という言い訳を自己正当化に用意する。

こうした思い込みが、永遠に尽きることのない親子の問題である。小津安二郎の自『一人息子』の冒頭、「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる」の字幕が出る。小津は、伝統的な日本文化の世界を描くことが多かったが、一人息子である自分はこの作品を我がことのように見入った。冒頭の字幕は、芥川龍之介の箴言集『侏儒の言葉』から採られている。

母の存在の是非について考えさせられる作品であり、母には絶対になれない男親から見て、母親の子への思いはあまりに近すぎてか、無惨にすら見えてしまう。「子供に対する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は、必しも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に与へる影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。」

芥川は続いてこのように述べている。作品の中心となる母子家庭の一人息子は、母の期待に応えられないことに苦悩するが、「そもそも子どもが母の期待に応えることが親孝行ではない」という小津の意思が自分には読み取れる。どちらにも負担を強いらず、しこりも残さぬ親子の正しい在り方とは、「決然と親不幸をする子どもと、それを何のわだかまりなく享受する親」ではないかと。

「道徳」というのはある場合において、「便宜」の異名と理解すべきである。他人の道楽や快楽の餌食になって命を落とす少女は哀れでしかないが、防ぐ手段がないわけではない。「箱入り娘」というのも非現実的である。他人はさておき、親の横暴や倒錯した価値観の犠牲になる子どもは、命を奪われるのは問題外とするも、幼児期は親の支配下に生きる不幸を背負う。

反面、「自分のために生きる」という活路を見出す者は、非権威主義者でもある。他者によって自分の存在を認められて喜びを感じるというそのことは、「自分のために生きる」ことにはならない。人から支持されたり評価されるのは悪いことではないが、真に自分のために生きるなら、他人の評価を受けずとも不安を感じることもなければ、見栄を張ることも意識することもない。

子どもを虐待する親も、子どもの奴隷になる親も、関わりすぎる点においては子どもにとっての害となるが、一切のものが、「見方」であるなら、なぜか後者は評価される。だからか、『子どもを東大に入れる』本も、『子どもを天才の育てる』本も売れるのだろうか。「普通の子で十分」という親もいるにはいるが、何もせずに放っておいても、藤井聡太は生まれてくる。

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