人は生きるために生まれてくる。生きることを叶えてやるのが親の役目である。なのに、子どもにとって狼のような親もいる。「鬼親」という言葉も言われるが、子どもを殺すなら、赤ずきんちゃんの話でいえば狼である。子どもはなぜに哀しいほどに弱く小さく愛くるしいのか?そうであるがゆえに大人や親がかわいがる。そのためだと、聞いたことがある。
言われてみるとそうかもしれない。おそらくそうであろう。なのに、どうしてこのような親がいるのだろうか?こういう親は上記したように、狼だからである。人間は人間にとって狼である。だからこそ人間を守るために何らかの制度化は必要となる。一般的に親子の愛は先験的なものとされ、制度とは関係なく親は子どもを守る。だから保護者と呼ばれている。
その親が子どもに鬼の仕打ちをし、狼のような振る舞いをし、ならばそういう親から子どもを守るために制度化されたものがある。警察や児童相談所がその任を負っている。危険な親から子を守るための制度はちゃんと存在するにも拘わらず、制度を機能させるのは人間である。彼らが今回、子どもを救えなかった自責を抱くなら、今後はさらに子どもたちを救って欲しい。
あまりに悲しい出来事に、情緒的になっても何も生まないばかりか、この親が結愛ちゃんにナニをしたカニをしたなどと書く気も起らない。幼い命を絶たれた結愛ちゃんに、生まれてきて楽しかったこともあっただろうと慰め以外に何もできない自分である。彼女の屈託のない笑顔をみて心は和むが、あまりに短き彼女の命に想いを寄せ、怒りをこらえるしかない…
人はなぜ生まれる場所や両親を選べないのだろう。依存しなければ生きていくことすらできない子どもたちは、親を怨むことも憎しみを抱くこともできない。親から何をされようと、「じぶんがわるい」、「ゆるしてください」としか言えない結愛ちゃんに、悪の鉄槌を振り下ろす親にどういう裁きがあるというのか。罪に相応する罰とはなんと理不尽なものであろうか…
人を殺せば殺人である。殺人なら殺人に罪を負うべきだろうが、過失致死という罪が存在する。人間が過ちを犯すものである以上、明確な殺意を争うのが正しい司法の在り方というが、そんなことでは死んで浮かばれたものなどいるハズがない。日本の司法制度は犯罪者に緩い。「死んだ者が浮かばれようが、浮かばれまいが、知ったことではない」と言わんばかりである。
「パパ、ママいらん」、「でも帰りたい」、結愛ちゃんは児相でこのように語っていたというが、ヒドイ親であることすらも理解できず、言われるままに自らを責めながら、それでも必死に愛を求めて親にしがみつく子ども…。口ではうまく詫びれないから手紙を書いたという。体力は弱りこころ萎えた天使は、自らに相応しいとことへと迎えられ召されていった。