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「独立自尊」の精神に学ぶ ②

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「独立自尊」といえば福沢諭吉だが、さらに遡れば聖徳太子に行きつく。国際化が進んだ現代は、太子や諭吉が考えたような独立自尊の精神が必要では、と言われている。国際社会の中で自分自身の責任を理解し、世界の人々と対等につきあう態度というものが必要であり、それが独立自尊の精神である。戦後70年を経たが、同じ敗戦国でありながらドイツと日本は大きく異なる。

両国の大きな違いは戦後処理であろう。ドイツは、いや、ドイツ人は、自国の歴史の恥部から目をそむけず、真正面から対決することによって周辺諸国の信頼を回復し、欧州連合(EU)の事実上のリーダーとなっている。日本はよくも悪くも米国に依存してきた。そのことでアメリカの属国のような立場をとり、経済発展はしても他国からは独立国として認められない。

なぜ、日本とドイツの間になぜこれだけの違いが生じたのかを考える学者がいても、実行できないしがらみが政治体制にあれば、「絵に描いた餅」でしかない。独立するためには依存を止めなければならない。言い換えるなら、依存を捨てなければ独立はできない。これが、「独立」、「自立」、「自尊」の基本である。独立自尊については身近な問題としてこれまで多く述べた。

「他人に自分の人生を支配させてはならない」ということが核にある。当たり前だが、自分以外はみな他人である。「親も他人」といえば、「親は肉親でしょう?」といわれたりした。「肉親であろうが他人」という考えを自身が理解できない人に、説明は無用である。自分は学校の先生ではないのだから。こういう人には、「他人に自分を支配させるな」の意味も分からない。

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「挑戦」という言葉、人間が主体的に挑んでいくもののように思うだろうが、実は「挑戦」というのは人間誰しも受けている。改めてその様に言われて、「?」と考える人もいようが、この際、考えてみるべきである。我々の周囲には規則(法)や制度が満ち溢れている。どちらも人間が生きていくための恩恵と考えられる。法や制度があるからこそ我々は社会に守られている。

が、人間がいろいろである以上、法や制度についても様々な考えがある。つまり、「法や制度は自分たちの生活を守るもの」という感覚を持った人間と、「法や制度は自分たちの生活を不自由にし抑圧するもの」と実感する人間もいる。どちらが正しい?ではなく、どちらも人間の本質であろう。法は時代に合わなくなれば改定される。制度改革もしばしばなされてきた。

それらが意味するものは、法や制度も人間を拘束しているという現実がある。自分たちの中学・高校時代は、男子は丸刈りだった。強制は憲法違反だから自主的にということだが、明らかに強制であった。制度存続を望む教師や保護者、制度改革を唱えるのは生徒のみならず、保護者や教師にもいた。にも拘わらず、甲子園球児を見ても分かるように、運動部の丸刈りは残っている。

高校野球部の丸刈り率は90年代に5割から3割に減ったものの、近年は以前にも増して8割を超えており、バスケやバレーなどの運動部にも波及しているという。増加の理由は何なのか?単純に考えれば、「見た目」であろう。高校野球好きな人は、「彼らが一心にハツラツとプレーしている姿がたまらない」という。自分は高校野球には50年も前から関心がなかった。

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それは今も変わらない。プロ野球も好き嫌い程度の関心事しかない。関心度の高低はブログ記事に一目瞭然現れる。高校野球の記事はおそらく一記事たりとない。プロ野球に関する記事も、選手や監督などの資質的な問題を取り上げることが多い。つまり、野球やゴルフやボクシングを通しての人間的な関心度といえよう。スポーツは単純に勝った・負けたの世界である。

物事結果にあまり固執せず、一喜一憂しないのも、自分の生き方哲学の土台である。数日前に、「『なぜ勝てる?なぜ負ける?』その理由」という記事を書いたが、物事の結果より過程に興味が行く。世の中のあらゆる、「勝ち負け」には、実は壮絶な人間ドラマが潜んでいたりする。人の容姿よりも、中身に興味があるところも、結果より過程への無意識の興味であろうか。

この顔で生まれてきたなら問題にしたところで仕方がない。それがさらに嵩じて、「問題にする意味がない」とくくってしまう。結果をあれこれ論じるより、人がどう成長したかに関心がわく。一人の美人がいる。彼女に抱く関心は、彼女が美貌をもってどう生きてきたかである。その方が断然面白い。アメリカの小中高の授業を見ていて感じるのは、その「自由」さである。

肩肘をつこうが、帽子をかぶったままだろうが、鼻にピアスをしていようが、机の上に足を乗せようが、授業態度を注意されることはない。本人が最もリラックスできる姿勢や体制が、知識を吸収する上でもっとも大事と考えるからだ。要するに、日本人は形式主義、西洋は実利を重視するという、そこが大きく異なっている。大事なのは成績であって授業態度ではない。

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「そういう授業態度だから、成績が悪いのだ」と日本の教師はいうが、そんなのは勝手なこじつけ、決めつけである。自分たちのころ、教室にストーブもなく冬は寒い。手をポケットに入れているだけで立たされる。おかしな罰だが、「だったら手袋してもいいですか?」という自分に、周囲は笑うだけ。教師も、「言い分けないだろう。誰もそんなことはしていない」という。

人がしていないからというのが善悪の基準、それが学校である。「横断歩道みんなで渡れば怖くない」という言葉は、そうした全体主義を揶揄したものとして生まれた。「みなでやれば正しく、一人なら正しくない」は完全に間違っている。正しいことは一人でも正しく、正しくないことは多数であれ正しくない。が、「正しいことは一人でもやれ」という教育はこの国にない。

「正義とは多数」という日本人の考えは、信仰を土台がない。高校野球をはじめとする多くの部活動は、「教育の一環」としての意義をもつ。その効果は否定はしないが、それでも部活動の不祥事は起こる?加熱する部活動、行き過ぎた部活動の現状を、部の顧問や学校や市教委、県教委はどう考えているのか?大学にもつまらんコーチがいるように中学・高校にもいる。

子どもの正しい目とは、つまらぬ人間をつまらぬ人間と見ることではないか。今回の日大の反則プレーの問題も、犯した学生が、「自分に責任がある」と断罪したことが何より評価である。監督やコーチの指示に従わなければ、自分が干される。試合に出られなくて何の部活であるか?これはネガティブな思考である。真のポジティブ思考は、ダメな人間を見据えること。

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彼らをダメと見据え、彼らの上に自らを立てる。それならダメ人間に支配されることはない。「他人に自分の心を支配させない」ためには、ダメ人間に媚び諂わない。小学高学年で母親をダメと見据えた自分だが、もし母親に媚びていたならどんな人間になっていたろうか?考えただけでゾッとする。バカをバカと見定められただけで、少なからずバカから逃れている。

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