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「独立自尊」の精神に学ぶ

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真実は何のために有用なのか?「客観的真実は幻想である」という有名な言葉がある。これは、「人間こそが万物の尺度である」を基調とする。自分が見たものは真実であるが、見ていないものや想像から得た、「であろう」なる真実は、幻想でしかない。したがって、「客観的真実などはどうでもいいこと」であり、「いっそ幻想である」と認めた方がいいということになる。

他人からの入れ知恵で悩んだり苦しんだりするのも人間だ。「あの女と付き合うのは止めたほうがいいよ」、「彼はメチャクチャ性格悪いらしい」、「あの男はたくさんの女性を泣かせているってよ」などと忠告する人がいる。忠告者は何の意図でそうするのか?「あなたのため」という親切心は大方おせっかいである。経験からいって他人の他者批判は無視するのがいい。

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他人のする他者批判などは所詮はその人間の判断でしかなく、自分とは別のものである。他人があることを、「これが真理だ」などという。果たして別人がそれを、「真理」と受け取っていいものなのか?人は人に流されやすい。とかく権威的な人ならなおさらであるが、普通の人にも流されることもある。流されてもいいが、誰もその責任は取ってはくれない。

そこが分かっているなら神に妄信するのも、「是」であろう。宗教の起源は道徳である。真理などといったところで、真理が何かといえば単に解釈されたものに過ぎない。それが道徳であったりする。何事も始まりがあるように、ニーチェは、「すべての道徳には起源がある」ことを見抜いた。事実、キリスト教道徳は弱者の強者に対するルサンチマンから発生したもの。

ルサンチマンとは、怨恨、復讐を意味する語。ニーチェは強者の、「君主道徳」と対比した弱者の「奴隷道徳」は、強者に対するルサンチマンによるものだとした。元来、道徳の根底には生命の根源からくる力強さがあるが、弱者は強者に対する反感をもち続け、一般の既成道徳を生じさせるとした。彼はまた、すべての哲学上の真理にも起源があることを見抜いた。

彼のいう、「起源」とはなにかといえば、人間の解釈である。したがって、「真理とは人間によって都合のいいように解釈されたものに過ぎない」。とすることで、真理を完全に相対化させてしまった。これがニーチェの考える真理である。たくさんの人間が真理について述べている。だからたくさんの新興宗教がある。新宗教ともいい、仏教などの伝統宗教と区別されている。

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子どものころ、新興宗教は身近にあった。母が天理教の信者であったことで、いつも自転車に乗せられて分教会に連れていかれた。習わぬ経も自然に頭に入り、分教会長らが、「この子は賢い子だ」と決めつけられて、母の得意満面の顔が今も頭に残っている。いつごろからか覚えていないが、教会に行くといわれて逃げ回っていた。理由は、つまらないところと感じたからだ。

つまらないと感じて逃げ回る子どもでよかった。それが子どもの正常値であり、親の強権に脅威を感じていなかったからだろう。「子どもは親への義理立てなんかするものではない」という考えは、自らの経験から生じたものである。高校の頃、家が新興宗教の支部だった級友が、日々のお布施を親が貪り、文句をいいながら生活費に充てていたことを具体的に話してくれた。

事実をそのまま語る彼であるが、これも宗教の内幕と考えればその一面を知ることにもなる。会社の裏面を知って、「ひどい会社」と辞めていく者もいる。彼も親の宗教を嫌悪していたし、跡を継ぐ意思はなかったようだ。宗教も商売と考えれば、代々続く実家の商売を継がない子どもに何の罪はない。たとえ老舗であっても、途絶えることでの罪は子どもにない。

自分も親の仕事には無関心だったが、20代の半ばころだったか結婚を考えていた彼女の父親から、「実家の跡継ぎ息子が、それをしないのはどういうことか!」と非難された。「そういうところに望んで生まれてきたのではありません」と言葉を返したことで彼女は親から批判された。そんなこと、自分の知ったことではないが、親の強権に逆らえない彼女に未練はなかった。

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自分たちの若い頃は(今でもそういう部分はあるかも)、「〇〇でなければいけない」、「〇〇だから〇〇すべし」という古い価値観道徳との戦いだった。古い大人たちはみんな同じ考えを共有し、若者にそれを押し付けた。そんなものを打破する人間はいつの時代にも現れ若者の胸を打った。プレスリーやビートルズ、ディランや吉田拓郎らはまさに旗手であった。

時代は60年代である。80年代にある若者の名を知った。尾崎豊である。彼は受験戦争に苦しむ若者に活路を与えた旗手であった。いつの時代も若者は大人に虐げられて苦しんでいるのだと、改めて考えさせられた。苦しい年貢の取り立てや飢饉で苦しむ農民の前に、日蓮や親鸞が現れたのも、広義には同じ理屈である。尾崎は宗教者ではないが、教祖と崇められていた。

鍬を武器に見立てて戦った一向宗門徒に、信長ら時の権力者は脅威を感じていた。国王や政府の圧政に苦しむ国民の反乱は世界中のどこにも起こった。昨日配信された『News Week』日本版は、『エホバの証人』の世界的な弾圧を報じていた。『エホバの証人』のルーツは19世紀の半ばに遡り、キリスト教に対する非難から出発した創始者ラッセルの教えではじまった。

大人たちが自らの意志でいかなる宗教に傾倒するのはいいとしても、親の宗教の影響を受ける子どもが被害者でないとは決して言いきれない。『エホバの証人』は、『モルモン教』と同様、信者に伝道を課すが、徹底して子どもを伝道者として訓練する組織の圧力は大変なもので、「自分が死ぬか生きるかは伝道にかかっている」と親も子も洗脳され、教育されるのである。

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親の都合で純粋・無垢な子どもを巻き沿いにするというのを最も忌み嫌う自分も、やはり幼少期の宗教体験が基にあるのだろう。子どもを被害者にするいかなる教育も、子どもの意志とはならない。子どもの意志にあらずことを、「成功」と評していいものかの問題意識を抱えている自分は、「結果善ければすべて善し」という功利主義にはなぜか与することはできない。

ない才能に見切りをつけるのは個人であるが、ない才能を執拗に助長する親も問題である。自分が歌手になりたいと思いながら歌手になるだけの能力を持たぬ場合、生涯、「歌手になれたら、歌手になりたい」と思って過ごすよりも、歌手に向かない自分を受け入れて、歌手になることをあっさり諦め、同時に自分に適する職を探す生き方の方がはるかに積極的であろう。

子どもの頃、宗教者らが寄って集って自分を褒めちぎるも、その場がつまらぬものであった自分に称賛は喜びとはならない。自分の朱に染まらない独立した精神がどう養われたか分からぬが、他人の賞賛によって自らを支えようとしたり、あるいは他人を見下げたり、バカにしたりで自らを支えることの虚しさ。他人に頼らず自らを支える独立自尊の精神を養うべし。

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