「勝負」とはその字の如く、勝ち負けのこと。勝敗を争うこと。ゴルフのような個人スポーツもあればサッカー、野球といった団体で争うもの、囲碁・将棋のような思考ゲームも勝ち負けを争うためになされる。それらを職業とする人をプロと呼ぶ。かつては玄人(くろうと)といったが、現在でも年配者にこの語句を使う人もいるが、若い人にはほとんど使われなくなった。
対義語である素人(しろうと)も現在ではアマが一般的だ。プロは、「プロフェッショナル」、アマは、「アマチュア」を略したもの。『NHKのど自慢』は1946年の放送開始で当初は、『のど自慢素人音楽会』とし、翌年から『のど自慢素人演芸会』と変更、1970年から『NHKのど自慢』となる。「のど自慢」という言葉も古く、近年は「カラオケバトル」などと変わった。
これらも勝敗(点数)を争うのが主体となっており、受験も入社試験も広義には勝敗を争う勝負といえよう。とかく人間が2人集まれば、「争う・争わない」は別にして、なにごとか争いごとは発生する。争いごとが好きな人もいれば嫌いな人もいて、好きな人を、「勝負事が好き」などという。後者を「平和主義者(愛好家)」といってもよかろう。とかく無駄な争いは避けるべきだ。
とはいえ、争うことで進歩したのも事実。争いごとが好きな動物を、「闘争本能」と捉え、人間の場合は行うのも観るのも好きなことから、これがスポーツの源流である。日本の剣道や柔道や弓道などの武術は武道として高められていったが元をいえば、狩猟技術や戦闘技術から発達し、神事、礼儀、呪術など農耕生活や、信仰生活の行事と密接な関係をもって発展していく。
敬愛する劇画家平田弘史の『弓道士魂』なる作品は、弓術の一種目「通し矢」を描いたもの。通し矢とは、京都蓮華王院(三十三間堂)の本堂西側の軒下(長さ約121m)を南から北に矢を射通す競技で、いくつかの種目があったが、一昼夜に南端から北端に射通した矢の数を競う「大矢数」が有名。江戸時代前期、有力藩の後ろ盾のもと多くの射手が挑戦して記録更新が相次いだ。
起源については諸説あるが、通し矢の記録を記した『年代矢数帳』(慶安4年〈1651年〉序刊)に、明確な記録が残るのは慶長11年(1606年)、尾張国清洲藩主松平忠吉家臣の朝岡平兵衛が最初である。彼は1月19日、京都三十三間堂で100本中51本を射通し、「天下一」の名を博した。以後各藩の腕利きが射通した矢数を競うようになり、新記録達成者は天下一を称することとなる。
寛永年間以降は尾張藩と紀州藩の一騎討ちの様相を呈し、次々に記録が更新された。寛文9年(1669年)5月2日には尾張藩士の星野茂則(勘左衛門)が総矢数10,542本中通し矢8,000本で天下一となる。貞享3年(1686年)4月27日には紀州藩の和佐範遠(大八郎)が総矢数13,053本中通し矢8,133本で天下一となった。これが現在までの最高記録となって以降、大矢数に挑む者は徐々に減少した。
『弓道士魂』は、上記尾張藩士星野勘左衛門について描かれている。物語の最後、星野勘左衛門はその功績により主君より千石の加増を受けるもそれを断る。そして通し矢は今後一切とりやめるよう願い出るのだった。彼の心底には、弓術練磨の集大成としての通し矢が、いつしか藩の名誉をかけた競技・競争に堕ちたことが真の弓術の道であるかという問題提起であった。
藩主の前に着座し、褒美を辞退した勘左衛門はこのようにいう。「小藩においては、百姓、町人に税を加えてまでも通し矢のための資金をしぼりだしておるとの噂も耳に致しまする。莫大な金銭を使い、失敗に終わった弓術者を犠牲に追い込み、真の弓術の姿を歪める通し矢競争…、得るものはただ一つ名誉のみ。これは児戯にも似た振る舞いといわせねばなりませぬ。」
殿を前に無礼な勘左衛門の口上に重臣たちは、「だまれ!競争あったがゆえに五十一本が八千本まで伸びたではないか」と遮るも勘左衛門は動じない。「武士を象徴するほどの武器と教えられた弓矢も、もはや実戦には役立たぬ時代となり、さすれば通し矢は所詮は武家の遊戯とみるしか御座りませぬ。遊戯に命をかけ、犠牲を出して何の名誉と申せましょう。
したがって、藩の名誉をかけての通し矢競争は一切に止めにし、今後は真の弓術を極めんとする者のみが競うべきと存ずる次第に御座ります」。千石をなげうって諫言する勘左衛門の言葉にしかと耳を傾け、受け入れた藩主であった。自分はこの話を400年を超えた現代にも当てはまるものと感じた。「人間を高める学問がいつしか受験戦争による家族総出の遊戯となり果てた。
本人はともあれ一家の名誉と子どもを鼓舞する親も少なくない。学問とは、学を極めんとする者のみが競うべきであろう。昨今の幼稚園化した大学に、親のすねをかじって遊び呆けるものたちの末路が、卒業証書に合致する幸福感を得るものであるか?」などと共通項を感じるのだ。本質を逸脱した無意味な受験戦争の歯止めに国が乗り出す前に親の本質が変わる必要がある。
人は人と争うべきなのか?「競争あるところに進歩はある」を間違いとは思わぬが、将棋界などを見て思うに、他人と何を争うというのか?「〇〇より勝ちたい」というのがモチベーションちなるのは否定はしないが、自身がする努力の対象(ターゲット)は自身であるのがいい。石川遼との比較を言われた松山英樹は、「一人に勝ったからといって何になる」とかわした。
真に努力をする者の敵は自身である。「相手に勝つより自分に勝て」ともいうが、人間は基本的にズルしたい、横着をしたいもので、自らを偽るために他人を表面的なターゲットにするのが楽なのだろう。26歳にしてゴルフ連盟会長を受けた石川だが、自ら真に向上を目指すつもりなら、名誉職などは腕も落ちた老成した選手に任せればいいこと。それでは練習不足は補えない。
「ゴルフ人口の拡大のためにひと肌脱ぐ」というが、公性を持ち出した方便に聞こえてしまう。そんなことを考える前にもっと自分を向上させるべきかと。イチローが国民栄誉賞を辞退した際、「現役の自分はまだまだ向上したい。栄誉賞は現役を退いた暁において、それでも自分が賞に相応しいというなら受ける」と述べていた。これはあくなき現役選手としての意志である。
自らを向上したいなら、向上の妨げになるようなものは一切排除する。イチローの自らに対する挑戦意欲を感じさせられた。石川が、「会長という多忙職にあっては練習もままならないのは当然で、それは衆目の理解するところ」。口には出さぬが、イチローとの対比からして、成績下降の言い訳の先取りに聞こえる。まだまだこれからの年齢なのに、彼は早く成功を手にしすぎた。
自分にはゴルフの素養はない。勝者がなぜ勝てたのか?敗者がなぜに負けたのか?などが分かる人は技術や理論が上級レベルにある。それは野球もゴルフも将棋も同じこと。石川の技術的な問題点は、サッカーの日本代表がなぜ負けたかと同様に、競技レベルの高い人ならわかろう。藤井聡太が勝つのも将棋にある程度の素養がある者なら分かるように…