耐えることで何かが身につく、耐えることで強くなれる、耐えることで希望を見出せる…、などの自己啓発するが、これらは「耐えることの意味」というより価値である。そうした価値を拠り所にするから、そこに留まることができるが、残念ながら価値を見出せないなら去って行くしかない。たとえ「価値」が見いだせなくとも、「忍」の一字で頑張るという克服もある。
本記事は今春東京の大学を卒業し、都内の一部上場メーカーに就職した堀田(仮名)という男性に関するものだが、彼は、5月中旬には会社に辞表を提出し、学生時代にアルバイトをしていた飲食店で週に3~4回働きながら、秋節採用や第二新卒向けの就職セミナーに通う日々を送っているというが、退社の理由は、「思い描いていた会社と違っていた」ということらしい。
「そのままダラダラ続けるよりも、早くやりたいことを見つけたい」ということも善悪というより個々の選択である。自分に合った仕事が見つかるまでバイトで食いつなぐという選択自体間違いとは思わないし、彼は耐えることに価値を見出せなかったから去ったのである。「耐える価値を見出せないなら去るしかない」といった自分からして彼の行動は理に適っている。
自分のいう理には適っているが、僅か一か月で退社をし、辞表を出した場合は一か月はいるものだが、彼はそれもしなかった。その理由は、「新人だし、部下もいないし、引き継ぎもない。そういう無駄なことは意味がないと話しました。そもそも、内定が決まるまではいかにも〝お客様〟扱いだったのに、入社した途端に〝会社の歯車〟的なことを言われた。
面接では個性だなんだと言っておきながら、今度は個性を出すな、言われたとおりにしろ、と真逆のことを言われているような気がして…、面接のときに話していた内容とまるで違う」と憮然とする。こうした彼の思いに他人が口を挟むこともなかろう。彼の言い分はそれなりに筋が通っており、精神論などを持ち出さなければ、しかとした現実認識の考えを持って生きている。
「内定が決まるまではお客様扱いだったが、入社した途端に、『お前は会社の歯車』だ」などの言われ方に憤慨するのも現代の若者らしい。こうしたドライな思考は、愚痴や不満を口に働く人間に比べればいかにも男らしい。「文句たらたら言いながら働くことに何の意味がある?」という考えは自分と同じであるも、世間はそんな人間を、「我慢が足りない」と批判をする。
彼は、「我慢が足りない」のではなく、「我慢を放棄した」のである。これを軽々に批判するのも思慮が浅いというしかない。確かに我慢は美徳とされるが、我慢しないの美徳というものもある。最も非難すべきはどっちつかずの中途半端な考えである。我慢が花を咲かせることもあれば無駄な我慢もあり、どちらが最善であるかの状況判断こそ人生の難しさであろう。
新婚早々に、「こんな人とは思わなかった」と相手に失望することはある。交際期間が短かったのが原因というではなく、交際期間中には隠匿していた本性が、結婚という形になった途端に現れるのは珍しいことでない。女性の多面性をさまざま経験した自分に言わせると、女性が女として最も恥辱を感じるのは、「自分の本心を知られること」であるのを知って驚いた。
ひた隠しにしていた本性を、ちょっとした油断でタガが外れてしまい、「地」を出すことになった場合である。ある女性は、「ああ、恥ずかしい。こんなところを見せてしまって…、ごめんね~」と、咄嗟にそう言った。自分は、何を恥ずかしがっているのか、何を謝る必要があるのかを理解できなかった。普段から「地」を出しっぱなしの男に分からないのも当然であった。
「女はそんなことが恥ずかしいのか?」。女性が自分を隠して生きるのが少しづつ見えるようになったのは、あの時の正直な言葉がきっかけである。「地を見られることを恥ずかしい」という女という生き物は、長いこと男をやっている自分にとって不思議であり新鮮であった。話を戻すと、結婚相手が、「自分の思った相手」でなかったとしても婚姻継続する夫婦は多い。
結果的にそれで良かったということになり、「こんな人だったのか?」の初々しき思いは、後年笑い話となる。こういう例をあげるまでもなく、我慢をしてよかったことは生きていればしばしばある。反対に、我慢しなくてよかったということもある。「こんな人とは思わなかった」と我慢することなくさっさと離婚をし、自分に合う相手に巡り合えたというのは好例である。
「一寸先は闇」という戒め言葉もあるように、離婚して別の相手と一緒になったはいいが、前の夫の方がまだマシということも現実だ。すべては行動してみなければ分からないこと。少しでも前例よりは上を人は願うし、いい結果を求めた上での行動であれ、思うようにならないのが人生か。前より良かれと思いながら、期待外れに終わった場合に、「運」として慰める。
自身の見誤りであるのを運とすれば、その人にとっては運となる。「耐える」ことの価値を見出せずに会社を辞めて、別の仕事に転職するのはよくないとされた時代もあった。「履歴書が汚れる」と諫め、辛抱人でないと批判された。が、退職や転職を、「厳しさからの逃げ」と判断するのは偏見である。言葉を変えれば、終身雇用時代の遺物であり、会社に依存する甘えである。
終身雇用なんかまっぴらゴメンとばかりに、会社を飛び出したのは実は有能な人間が多かった。彼らは、不満と愚痴を言うために出社する人間とは根本が違っていた。人と違うことを良しとする、「逆張り」人生を望んでいた。もっと面白い仕事をしたい、活気にあふれた仕事をしたい、そういう人が多かった。それが転職の契機になったのは、ポジティブな人間だからである。
何事において、成功するかどうかなんてのは結果に過ぎない。大事なことは、「現在」であり、その人が情熱をもって過ごせているかどうかである。今が面白くないという人においては、運もお金も逃げていくもの。お金というのは、基本は楽しいところに集まってくる。これは決して言い過ぎというのではないが、比喩的思考である。しがみつきや依存の人生は最悪だ。
終身雇用が解消されたことで、甘えた人間の居場所はなくなった。受付嬢の顔を楽しみに出社するような無能古参社員もいた。リスクというのは元気の源、つまり活力源でもある。リスクというのは案外風評であったり、保守的思考であったりの場合が多い。みんなが、「危ない」というものの中には、なんにも危なくないものがあったりする。そういう体験は多かった。
「自分たちがダメということはやるな」というネガティブな先人もいるが、「自分たちがやれなかったことをお前たちが叶えてくれ」という先人にこそ魅力的だった。だから、新しいものが生まれてきた。臆病で保守的な人間は前者を拠り所とし、自由で革新に満ちた人間は後者に勇気づけられる。「転職は有能者の証である」とみられる時代は間違いなく到来する。