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「耐えることに何の意味がある?」

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入社1か月で辞めたモンスター新人の言い分が、「耐えることに何の意味がある?」だという。あまりに面白い表現に思わず笑ってしまったが、表現といういうより理屈だろう。笑ったのは、「今どきの若者は…」と、バカにしたのでも見下したのでもない。青年期になりかけのころ、このように思った。「大人になったら、『今どきの若者は…』なる言葉を絶対口にしない」と。

理由は、自分が若きころに大人たちからそうした言葉を吐かれ、バカにされたからで、それがとても嫌だった。大人たちは自分たちのことなんかまるで分かっちゃいないと思ったりもした。「今どきの若者は性根が腐ってる」、「今どきの若者はホントにダメだ」、「今どきの若者は何を考えているのかさっぱり分からん」などと、すべて否定的なダメ出し言葉だった。

大人になったら絶対に言わないと自分に言い聞かせたが、言わないは思わないではなく、面と向かってそういう言い方をしないということだ。「腹で思っているなら口に出さずとも同じではないか?」。確かにその論理は成り立つが、世の中、思っていても口に出すべきでないことは多い。太った女性に、「太ってますね」、「デブですね」など言っていいわけがない。

もし、「今どきの若い者は…」を若者にいうのなら、せっかくだから肯定的に言ってやりたい。肯定的といっても、正しいという意味ではなく、近所のおばあちゃんが、「今どきの子だよね~」などと、おそらくおばあちゃんは、若いころの自分たちと比べて今の若者はあまりに違いすぎるが、否定をしたところで仕方がない。だから、「今どきの子」という言い方になる。

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確かに、今どきの子(若者)は、今どきの子であることに間違いはない。彼らが昔の子(若者)と同じであるはずはないし、たらいと洗濯板でゴシゴシ洗濯していた時代と現代はまるで違っている。どこから見ても今どきの子は今どきの子であって、だから、「耐えることに何の意味がある?」という言葉を時代の流れとするなら、こんなことが言える時代なのだと感心もした。

我々の若き日にはそんな疑問すら持たず、だからか上司や経営者にそんなことを言うなどあり得なかった。「耐えることは当たり前」と思っていたのである。なぜ、「当たり前」と思ったのか?おそらく、耐えることで何かが自分に身につく、あるいは耐えることで強くなれる、さらには、耐えることで必ずや希望(光)が射すだろうと、「耐える」に意味を見出していたのだろう。

それからすれば、「耐えることに何の意味がある?」という今の若者は、耐えることになにがしの意味を見つけようとしていない。つまり、「耐えることに何の意味がある?」というのは、自身の疑問に対する他人の答えを求めているようにも感じられる。自分で考えることをしない、自分で答えを見つけようの気持ちがない。これは現代若者の依存心と見た。

それなら理解もできよう。自らで考えようとしない、答えを見つけようとしないは依存心であると決めつけた。どうしてそんな若者になってしまったのか?みながみなそういう若者ではない。「耐えることに何の意味があるか」の意味を自分で見つけようとする若者もいるはずだし、いて欲しい。自ら考えて答えを出せば、自ずとそのことに対処していけるだろう。

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「耐えることに何の意味があるんですか?」を上司に尋ねてどうする?なぜなら、上司がくれる答えに納得できるとは限らない。だから、自分の答えを見つけるのだが、おそらく彼らは疑問というより反抗態度をぶつけているつもりなのか?そういう彼らにどんな風に答えようと否定的にとる。もし、自分が上司で新入社員がこういう言葉を口にされたら何と答えるか?

「何の意味があるかって?そういうことは各々が自分で考えるのよ。自分のことだろ?人に聞いてどうするんだ?脳みそがあるなら君の答えを見つけろ。それとも糠みそか?社会に教科書はないんだよ。自分なりの答えを出すしかない」などといいそうだ。当たり障りのないkとをいっても彼の身にならない。耐える、耐えないは本人の自由、耐えたくないなら去るしかない。

人から教わることより自己教育力こそが身になる。今の若い子は(といういい方を便宜上するが)、何事も教えられ過ぎて育っている。それが自ら思考する習慣を阻み、育まれていない。会社の上司は塾の講師ではない。覚えることが膨大であり、考える時間を無駄とし、テクニック史上主義に走る。手っ取り早さを求める指導者ゆえに、合理主義的マークシート人間が育った。

「教えすぎの弊害」は一朝一夕に改まるとは思わぬが、だからといって手を差し伸べてばかりでは、彼らの依存心は一向に改められない。しかし、それでは仕事ははかどらないというジレンマとなる。だから、独立自尊の考えを持った若者を確保すべきかもしれない。そうかといえば、上意下達を旨とするロボトミー志向企業もある。多くの製造業は工場でロボットが稼働する。

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文句も言わず、不平も言わず、便利な代物だ。が、機械に向上心はなく、機械の向上は、人間の頭脳の向上となる。反面、機械は努力をしない代わりに嫌なこと(意識はないが)を文句も言わずに延々とやるが、人間は努力をし、それによって向上する。一般的に努力とは、「苦痛に耐えて目的を達成すること」と見られがちだが、「苦痛に耐えること」=「努力」ではない。

なぜなら、自分が嫌なこと、したくないことを延々と、ロボットのように続けられる人間などいるハズがない。人生とは幸せになるためにある。ならば、「努力」は幸せになるために使うべきであろう。人はそれぞれが不足な状況(環境)に生きている。「幸福というものは、それぞれの人間が持つ不幸というものを、それぞれが癒すためにこそ生きている」と以前に述べた。

物事は考え方である。考え方で意識は決まる。ならば嫌なことを我慢し、努力するのではなく主語を「幸福」に置き換え、「幸福になるために我慢して努力をする」とすればいいのでは?そういう考えに立てば、「耐えることに何の意味がある」という問いに、一つの答えがもたらされる。「幸福になりたい、幸福になるのを目指して耐える」というのも立派な答えである。

ネガティブな人間は後ろ向きに物事を考える。それなら、努力も耐えることも味気のないものになる。ポジティブ・シンキングがすべてに、「良」とは言わないが、ちょっと視点を変えるだけで、行動が生き生きとはかどることもある。「どう考えるのも自由」であるが、同じ世を生きるなら、前向きに考え、前向きに生きていけたらいい。後ろ向きに走るのは難しいものよ。

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