「死刑になる夢」は運気上昇であるという。見心地は良いものではないが、夢を見た後はあまり心配せず、安心すべしとある。運気上昇といっても自分の年齢で運が上昇といわれても、それが何か分からない。したがって、「運気上昇」、「運気下降」どちらも気にならないが、「死刑の夢」といっても、「死刑になる」と、「死刑を宣告される」は状況が違っている。
自分の場合は、「死刑宣告を受け、執行を待つ」というものだろうが、これについては、「どういう場所で待つ」かによって意味合いも変わってくるという。「妻や子どもらと一緒に、自宅で死刑執行を待つ夢は、家のローンや養育費に心配がある表れ」。「友達と一緒に、学校で死刑執行を待つ夢は、試験や受験などに心配がある表れ」。どちらも自分には無縁のこと。
「薄暗い場所や留置所で一人死刑執行を待つ夢は、自分の人生に対して、ぼんやりとした不安があることの表れ」。であるという。以下のサイトには見た夢の内容を項目別に記されている。なぜ「死刑になる夢」を見たのかがわからないので、一応「夢判断」なるものを開いてみたものの、それなりに辻褄のあるようなことが書かれてはいるが、根拠に乏しいと感じた。
「占い」というのも信じない。手相や顔相の類も信じない。数日前にある方が、「これがあなたです」なるものをよこした。そこに書いてあることはあまりに自分に合致しているので驚いた。聞いてみると、生年月日占い診断であるという。物事に懐疑的な性格の自分は、人間の性格が生年月日だけで決まるとは思わない。仮に当たる部分があってもである。
その人の性格は、兄弟の種類や有無、裕福か貧困かといった家庭環境や、親の性格による躾や教育方法、あるいは友人関係などで複合的に決まると思っている。生年月日で決まるというなら、同年同月同日の人間はみな同じことになるではないか。占いの類を、「当たってるから信じる」という人はいるが、上記の要素からして、当たっていても信じることはできない。
信じて得もなければ信じないで損もないということなら遊びの類であろう。子どものころによくやった、「あきすとぜねこ」が懐かしい。あれを好きな女の子と組み合わせて密かに喜んでいた自分が思い出される。いつの時代においてもいろいろな人が死んでいく。もちろん、いろいろな人も生まれるわけだが、功績や業績という点において、生まれた赤ちゃんには、「無」である。
よって、他界した人に対する種々の思いは尽きない。この人も、あの人も死んでしまった現実からして、いつかは自分たちも人知れず死んでしまった人になる。何の偉業もない人間だから、身内や肉親や知人に認識されるだけだろうが、それも同じ人の死に違いはない。指揮者で作曲家でもあったレナード・バーンスタインは、生前このように述べた。皮肉も含めて…
「偉大なことを成し遂げるには、2つのことが必要だ。それは、計画と、あまり十分でない時間である」。このことから、偉大な業績を残した人には生の時間が十分でなかったのだろう。もっともっと多くのことをやりたかったと思われる。それぞれの分野で偉大な人物の早すぎる死があるが、個人的には56歳で亡くなったスティーブ・ジョブズの死が惜しまれてならない。
死者を送る弔辞でしばしば耳にするのが、「先に逝ってしまったお前だが、待っていてくれ。俺も行くから…」などの言葉である。つまり、死後の世界で友人たちは相まみえ、歓談し、酒でも酌み交わそうと語り掛ける、そんな弔辞もある。本当に可能なのか?死後の世界があって、そこに行けば死者たちと出会えるのか?疑問は尽きないし、死後の世界を自分は信じない。
日本人は一年間にどれくらい死ぬのか?いきなり言われてもそんなことを知る人は少ない。約125万人程度といわれるが今後は増え、2030年には160万人と推定されている。もし、あの世があるなら、あの世の広さにもよるが人口過密であろう。「死んで会おう。酒を酌み交わそう」とはいっても、死んであの世に行くのは、生前のような人間の生体のようなものではない魂では?
人間の格好をした生体(いや、死体が)が、あの世で待つのではない。あの世があるとして考えるに、人口過密の死後の世界で、死んだ友人や親に会えるのか?彼らは死後のどこにいるのか判明するのか?東京の友人は、東京で死に、広島で死んだ自分とどこで会えるのか?死後の世界にも都道府県があるなら、東京の友人に会いに死後の東京に行けばよいこと。
どうやって行くのか、何らかの交通機関なのか?死者は浮遊できるのか?東京にはたくさんの死者がいるだろうから、どうやって相手を見つけるのか?まさか電話はないだろう。彼はどういう服を着ているのか、自分はどうか?互いが棺桶に入った白い装束なのか?だとしたら互いはまるで幽霊のようである。「死ねば幽霊だろ?」といわれると、確かにそうではある。
そうはいっても人間の個体は火葬されるので、灰になった同士が灰のままで会うこともない。死んで残るは霊だという。あるいは魂ともいう。霊と霊、魂と魂があの世で出会うことになれば、話というのはできないだろう。それとも魂言語があるのだろうか?戦時中に亡くなった戦士を英霊とされ、靖国神社に合祀されている。生前の写真はあるが、特攻兵は跡形もなく散った。
彼らは跡形もないジグソーパズルのような体であの世にいるのだろうか?などとむか~し考えたことがある。『二十歳の原点』の高野悦子は列車にひかれて轢死した。彼女に会ってみたいが、死後は地元の栃木にお住まいか?それとも死んだ京都にいるのか?死後に年齢をカウントすれば69歳になるが、死者とは死んだときの年齢のままあの世でにらすのか?
「あの世で暮らす…」というのも変な言い方だ。飯食って、糞たれているわけもない。死後に年齢がカウントされないなら、80歳で死んだ息子が、50歳で死んだ親に会うことになる。自分より年齢の若い親というのも想像しかねる。霊とか魂があの世で浮遊しているという概念が、自分にはどうにも理解できないのは、地獄や天国を描いた絵などに毒されているからか?
とにかく、死後世界の存在を考えると矛盾や疑問ばかりである。だからか、いっそない方が問題はない。それは「魂」の存在を信じる人や認める人にとっては不都合なのだろう。不都合なら不都合でいいから、合理的な死後の世界を説明してほしい。この世には目に見えないものがあるのは理解できるが、それを「霊魂」などに広げても納得いく説明が可能なのか?
死後に誰かに会うということだけはないように思う。広島で生まれて東京で没した知人は死後のどこにいるのかを自分は知らない。1986年のビルから飛び降りた岡田有希子は、当時18歳だったが生きていれば50歳。彼女の同級生があの世で彼女に会い、「ゆっこ、いつまでも若くていいね」と羨む。「でもね、あたし早く死んじゃったから」と、彼女は答える?