どれほどの苦しさをもってなら、人は、「これほど苦しいことはない」というのだろうか。数日前に見た夢は、夢であっても自分がこれまでに体験したことのない苦悩であった。あまりの苦しさにおそらく脳が耐えられず、目が覚めたのが夜中の3時前だった。しばらくは寝ることもできず机に腰かけて、夢の在り処を考えていた。30分後くらいに床に入ったが、夢の続きを見ることはなかった。
こういう内容である。自分は死刑の宣告を受けていた。どういう犯罪をやったかは分からないが、死刑宣告を受けたまま収監はされず、社会の中に放たれている。ところが、刑の執行日が今日と決まっていて、夕方の6時を期限に出頭しなければならず、夢の中ではその時刻があと1~2時間後に迫っている。こういう緊迫した状況を前に悩み苦しむ自分であった。
夢の中ですら人は苦しみ葛藤する。どうしてそんな夢を見るのかわからないが、もし、同じ現実を想定するならこれが究極の苦しみか。死刑囚は独房に入れられ、ある日突然、数名の刑務官に、「出なさい」と命じられる。何をしていてもである。獄舎で小説を書いていようが、ペン画を描いていようが、句などを作っていようが、中断を余儀なくされて刑場に連れていかれる。
これもやるせないが、社会の中で普通に生活をしながら、「本日が刑の執行日と決められていて、時間までに出頭」という義務を自らの意思に委ねられていることの方が、実は苦しいのではないか?人は自ら主体的な意思行動をするより、他人の力で強要される方が楽ではないのか?夢の中でそういうことは考えなかったが、自らの意思に委ねられる状況を苦しんだ。
なぜか逃げる選択はなかった。その時間までに絶対出頭しなければならない、そのことは自身の中で確定していたから苦しいのである。とても勇気のいることに思えた。刑務官に告げられ、獄舎を後に刑場に連れていかれることの方が、むしろ「諦観」という境地に救われる。自主選択には自由裁量がある分「諦観」という心情は起こらない。ある場合に人は自由である方が苦しい。
むか~しある女の子が、「人から命じられる方がいい」と言っていた。「自分で何をしていいか分からない」と、自分の、「なぜ?」にそう答えた。自分の性格として理解できなかった。親の強引さにあれほど反発・反抗してきた自分である。今でも権威をかさに押さえつけたり、命じられたりは極度に嫌悪する。だから自由を求め、自由の恩恵を最大善と感じていきている。
目が覚めた時は意識がハッキリし、シャツは汗でぐっしょりだった。「夢でよかった」とため息をついた自分だ。日時を決められているという強迫観念は絶対的なもので、それに抗う自由というのは無視することだ。逃げれば追われるのだろうが、なぜかその選択はなく、「逃げればどうなる?追われるのか?」そういう思考は一切なかった。なぜ、逃げる選択がなかったのか?
おそらく、自分の真面目さであろう。何かから「逃げる」という選択や行為は自分が最も忌み嫌うもので、だからなのかどうなのか、そのことは頭の隅になかった。その日、その時間までに、気持ちを整え出頭しなければならないという意思決定がゆえに苦しむのだった。死ぬことを自らに課し、そこに足を向けなければならない。それがとてつもなく苦しい選択であった。
いや、選択というのではなく決められごとだから、これは「約束」である。こういう「約束」ごとを守らねばならないという苦悩である。逃げと甘えは、その表裏において一体である。甘えとは他人に愛されることだけを求める人間である。自分の感情が自分自身の内に根を下ろしていず、他人の態度や行為に依存する、これが甘えである。甘えを排する人間は依存を遮断する。
それでも、基本的に人間は他人に依存し、甘えたい。ゆえに甘えを排除する人間は苦しく、その苦しさを強さと言っているが、それらは自己の選択に過ぎない。単に「甘えないようにする」という自己抑制であろう。自己中心的な人間というのは、そうした自己中心的な感情の動きをすればするほど、自分の自己中心性に気づかない。他人をひどいとかけしからんとか思ってしまう。
言い換えるなら、甘えや自己中を抑制する人間ほど、自身の甘えや自己中心性を理解している。他人に迷惑をかける自己中な行動は、普通は分かっていればやらないものだが、分かっていながらそれをやるのが甘えた人間である。確かに、自己中心性の甘えの自覚は極めて難しいものだ。これを親から当たり前のごとく供与され、自己に内面化された人間ならなおさらである。
いかに親に甘やかされて育った人間であれ、少年期から青年期へと成長する過程で、自己認識と他人の行動を比較し、自分を知ることになる。その意味で自分のことの多くは他人が教えてくれるし、他人から学ぶものだ。それすらもない頑なな人間も中にはいて、彼らを自己中と呼んでいる。とはいえ、人間なら誰にでもある自己中心性だからこそ自己抑制がなされる。
物事がうまくいかない、しくじる、失敗する、挫折する、そういった「蹉跌」は必然的なもので、だから以下の言葉が金言となる。「成功しないことは感謝すべきこと。少なくとも成功は遅く来る方がよい。その方が君はもっと徹底的に自分をだせるだろう」。早い成功に胡坐をかいたことで、後に伸び悩んだ人間は多い。20歳で自伝を記したプロゴルファーには驚いた。
「自伝」などはおおよそ苔が入る年齢に書くものであろうが、プロデビューわずか4年で自伝を書いた選手を彼以外に知らない。しかもそのタイトルが、『僕の歩いてきた道』である。これから歩こうの年齢なのに、「歩いてきた」とは、いかに周囲が彼を持ち上げたか。プロデビュー5年を過ぎた松山英樹も、メジャー制覇に向けた努力の裏には過去を見据えることなどない。
小さな目標や近くて安全な目的地しか持たぬ人間は、遠く危険も多い、そして険しく高い目標や目的地をもって日々を悪戦苦闘する人に比べて、一見、安住・幸福に見えるが、自身の能力を鍛え、高めるという点で内容が貧弱のままストップしてしまう。「小成に安心する」若者は周囲が甘やかせたと見るべきで、「青春の蹉跌」が無知なる若者の試金石であるのは自明の理。
「若者に苦労は必要」、「苦労は勝手でもせよ」といわれる。誰でも苦労は避けたい。できるならない方が良い。本人も親や周囲もそれを望むが、それを避けるために宗教に入る者もいる。「あなたを救います」という言葉に動かされるのだろうが、そんな美辞麗句を並べた押しつけがましい宗教で、人が救えるものだろうか?思うから入信するのだろう。
大学受験に失敗したことが入信の動機という女性がいた。自分の行動の動機をハッキリ知るというのは重要である。なぜなら、自分が自己中心的な甘えを持った人間であるかどうかは、自分の行動だけでなく、自分の行動動機をハッキリ知る必要がある。確かに人は自分の真の動機に目を背けたがるものだが、真の動機に目を背けるのが、案外無意識の問題であるからだ。
当人からすれば、神への信仰と思ってやっていることが、実は何かの不満を隠れ蓑にしていたりする。人間は他人に自分を立派そうに見せかけるばかりでなく、自身に対しても立派そうに見せたがるもの。ゆえに、真の動機が自身の不満や劣等感であるにもかかわらず、他人への親切心が動機と思い込む。宗教はこうした人間の真動機の隠れ蓑になる場合が多い。
ところが、呼び込む側はそんなことなどどうでもいい。神を崇めるようにすればいい、教会にいかばかりかの寄付をしてくれればいい、彼らもそういう本音を隠している。人間は自分を騙すことに関しては天才である。例えばあることをやるのは、責任感であると思いつつ、真の動機は、他人から善い人間と思われたい、尊敬されたいという動機であったりする。
それが悪であるとか、善くないとか、偽善的であるというつもりはなく、所詮人間はそうしたものかも知れない。誰も自分の真の動機などについて思い悩むことなどないのかも知れない。そんなことを思い悩んでいるなら、日々夢でうなされることにもなろうか。苦しい夢など見たくはないが、究極の選択や難題を夢で思考させられるも、「夢でよかった」の安堵となる。