反則を犯した日大選手は、「俺はやるべきことをやる」という気持ちが増幅したようだ。人間には個々の事情や都合というものがある。そうした個々の都合に寄り添う場合もあるが、下位者が上位者の都合を忖度することで、真実や正義が隠匿されていいものか?自分が知り得た真実を隠匿する官僚は、国家・国民のためにではなく、権力者を守るために仕事をしている。
こうした日本的な慣れ合い社会は、この国の総理をはじめ、数多の政治家や官僚に見られ、彼らは私欲にからめて嘘をいう。公益より私益重視の国家である。人間は言葉を持つことで表現手段が飛躍的に進歩したが、「言葉は心を隠すために与えられた」という言葉も過る。嘘の中に利益を貪る権力者を補佐する官僚たちは、同じ穴のムジナたる同居人である。
正義感の行使はどうあるべきかについて考えたことがある。隣の妻の浮気を知ったとする。それを主人に言うべきか否か?自分はそういう問題に「何が正しい」の決着をつけている。それが公益性である。今村昌平の『うなぎ』はそういう作品だった。本年、是枝裕和が『万引き家族』でカンヌ映画祭パルム・ドールを獲ったが、1997年の『うなぎ」以来20年ぶりである。
今村昌平監督は1983年『楢山節考』も併せて二個のパルム・ドールを獲っている。カンヌに愛された今村も来年は13回忌となる。北野作品もカンヌの常連だが、今村や山本薩夫、熊井啓、ルメットら社会派映画の好きな自分に北野映画との接点はない。社会派映画には告発の要素が多い。『楢山節考』、『白い巨塔』、『サンダカン八番娼館』、『十二人に怒れる男』など。
告発は勇気である。現代人が、「我が良心」とお題目を唱えつつ、その実は自らのエゴイズムにしか過ぎないことを羞恥もないままに言葉にするさまは滑稽を超えている。道徳とか良心とかを持ち出すのは、自分に嘘をつきながらも、嘘をつく自分を認める強さのなさであろう。醜いことを醜いと認めるのは勇気以外のなにものでないが、醜いことを美しいという欺瞞は許し難い。
日大選手が真実を述べることで、傷ついたものがいたとしてもそれは彼の責任ではない。もっとも傷ついたのは彼自身である。周囲の同情で相殺できるようなものでもなく、スキャンダルを投じた気も彼にはなかった。多くの人は真実を求めていく過程で真実に負けてしまう。人は真実に耐えられるほど強くはないのである。だから切々と真実を述べる彼は強い人間である。
「生きがい」というのをワザに見つける必要はないが、生きがいのある生活を望むなら、自分のありのままの姿を直視する勇気と、洗いざらい自分をさらけ出してみること、さらには一切の甘えを自分からなくすことかも知れない。「甘え」こそが生きがいの最大の障害物である。自分を偽り、あるいは飾っている限り、生きがいとは無縁の生活をすることになりはしないか?
彼はアメフトという偽りの生きがい観と決別し、現在はまだ新たな生きがいに遭遇してはいないが、上記したようにありのままを直視し、自らを洗いざらい晒し、甘えから隔絶した自己責任を選んだことで人としての崇高な生きがいを現した。生きがいを本当に求め、欲している人間は、「生きがいが欲しい」などという、アクセサリー的な表現はいわないものかも知れない。
生きがいとは悲しみと必死で戦うことで生まれるものかも知れない。苦しみを乗り越えたとき、それも生きがいにあたるものだろう。確かに人間は、周囲が自分に同情を寄せ、自分に好意をもってくれていることが幸せであろう。しかし、生きがいとは、周囲の好意によって自分が何かをやるのではなく、自らの力で自らのことをやるときに生まれるものではなかろうか。
彼が危惧したのは、「自分の発言は誰かを傷つけることになりはしないか」でなかったか?その際に、彼の父はおそらくこういうだろう。「(公益性のある)真実は、誰かを傷つけること以上に高い価値を持つ。真実に恐れを抱くことはなにもない」であろう。自分ならその様に伝える。誰が傷つこうと、自分が傷つこうと問題ではない。真実や善悪はそれらの彼岸にある。
自分の経験でいっても、人間が強くなると他人に冷淡になれる。冷淡というのは相手から見た言葉の思いであって、こちらにすれば厳しくなれるということだ。つまり、他人に厳しくなれるというのは、自分に厳しいの裏付であると、子どもを甘やかせる親について述べた。自分を甘やかせ、子どもを甘やかせるほうがどれだけ楽か。親はそういう十字架を背負っている。
欲求を規制するのが社会規範であるが、そうした社会規範ですら究極的には欲求に根を持っており、欲求からの活力を引き出している。難しいならこういう事例がある。ダイエットしたい。何とか10キロ痩せてみせる。そのためには食事を抑制し、運動を頑張ることができる。こうした活力は、食べたい、動かないでじっとしていたいという否定から引き出されるもの。
一億総評論家たる時代にあっては、芸人たちがテレビで、「これが正義!」とばかり、他人を血祭りにする。「他人の不幸は蜜の味」的な構成で視聴率を稼ぐ意図は分かる。誰もが人の悪口、告げ口は好きなのだし、寄って集って悪口をいえばそれも多勢に無勢となる。「横断歩道、みんなで渡れば怖くない」という言葉は、日本人の姑息な正義感を現している。
いつから他人の悪口番組が主流になったのか?こんなことばかりやっていて、国民の品位が下がるとは思わないのか?上記した正義の告発とは、己のしょぼい社会規範を振りかざすのではなく、公益性の有無を主軸に考える。他人の不倫を寄って集って話題にするそれのどこが公益性?隣の主婦の浮気を主人に告げることで、どういう公益性があるのか?
「夫は真面目に働いているのに許せない!」という私憤を、他人の私的なことに持ち込むどこが公益か?そういう妻であっても、夫が自ら選んだ妻である。自ら選んだ悪妻の文句を言っていくとこなどない。「知らぬは亭主ばかりなり」という慣用句は昔からある。江戸時代、江戸の町の男女比は圧倒的に男の方が高く、一人前の商人や職人になるまでは、結婚できないことが多かった。
このため、親子ほどの歳の差のある旦那に嫁ぐ娘も珍しくなく、精力のあまった若い女房は年とった旦那では物足りない。だからか奉公人の若い手代とできてしまったりもした。岡場所(遊郭)にもいく金のない半人前男は、ついつい旦那のいる長屋のおかみさんに手を出したくもなる。そうしたことから洒脱の意味も含めて、「店中で知らぬは亭主ひとりなり」となった。