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Channel: 死ぬまで生きよう!
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青春の蹉跌 ②

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6日に行われた定期戦の際に日大選手のタックルで負傷した関学のQBが試合に復帰した。この反則行為に対して関学の選手の父親は被害届を提出、日大の誠意ある回答を持ったがかなえられなかった。試合中の行為を刑事事件として扱った例は少なく、立件の判断は難しいだろうが、学生スポーツという特異な環境の中で、指導者によるパワハラが存在していた可能性は捨てきれない。

会見をした日大の選手は退部をするという。高校から続けたアメフトを辞める決心をしたのは、今回のことが原因だろう。代弁するならバカな指導者に自分が踊ってしまったという自己嫌悪がみえる。好きなことでも嫌になることはある。我慢できることもできないこともある。自分で決めた退部ならそれでいい。可哀そうの声もあるが自分はそうは思わない。

バスケが大好きだった孫は私立強豪高校から声がかかったが、コーチに嫌気がさして退部を申し出たときは褒めてやった。コーチの判断ミスのとばっちりを受けたというが、クラブの秩序維持のために理不尽なことを我慢をし、部員の手前もあってコーチの顔を立てるような受動的振る舞いはできぬことはないが、そんなコーチの下で部活をやっても得るものはない。だからコーチを見切った。

自分も小学生で母を見切った。忍従は美徳ではない。所詮は心に潜むわだかまりを我慢し、放置するだけだ。好きなバスケだからこそ辞める孫を理解した。日大選手の好きなアメフトを指導者が汚してしまう。彼は監督・コーチから受けた凌辱に一石を投じ、前代未聞のスキャンダルとなった。アメフトだけが彼の人生でなく、他のスポーツであれ、スポーツ外でもいい。

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アメフト決別後の現実を変革していくことが大事で、彼ならできる。四季の移り変わりが自然の摂理であるように、人の周辺も変わればそれで彼も変わっていく。彼はアメフトに代わる別の何か、「生きがい」を見つけるであろう。これまでのことは一旦終了し、新しい何かに向けた人生に踏み出せばいいし、そのために彼はやるべきことをやったのだから未練はなかろう。

「生きがい」をある側面から捉えるなら、社会における参加への実感ではないだろうか。自分が社会にとって必要とされていると実感するとき、人間は生きがいを感じるし、その意味で内田監督下によるアメフトという生きがいは喪失した。世界にたった一つの自分の人生である。今後は実社会に出て、彼という人材を評価してくれる人や働き場は必ず見つけられる。

積極的な人間と消極的な人間がいる。その違いは先天的というより環境がもたらせたもの。どちらがいいかは文化の違いもあるが、西洋では積極的な人物が好まれるが、積極的な日本人は出しゃばりと敬遠されることが多かった。しかし近年はグローバルな視点から、「待つ」より、「向かう」が重視される時代もあってか、物怖じしない積極的な人間が好まれる傾向にある。

積極的であるということは、そこに働きかけるということだから、何かを変える、「力」となる。何もしないは何も変わらない。愚痴や不平・不満を増やすだけの働きしかない。日大の彼は何かを変えるパワーを見せてくれた。人は行動することで自らの内にあるものを解放する。しかもそうした解放は、自らの個人的努力をもって成し得るのだという意気込みが大事である。

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今回はそのことを強く感じさせられた。我々は多くの偉人や賢人から学び、その中には偉大な哲学者もいるが、哲学者から学ぶものが観念論だけなら、耳が肥えた人間でしかない。多くの哲学者は、「善」について述べているが、カントやニーチェが問題にしたのは、「善意志」だった。西田幾多郎はその著『善の研究』で、「主観客観を超えた純粋経験こそ善」と述べている。

「純粋経験」とは主観も客観もない、知識と対象がまったく合一した、「主客合一」の状態をいう。それを得ることこそ最高の、「善」であると西田は説いた。噛み砕いて考えてみるに、「規則や法を守る」という社会ルールによる客観的善でもなければ、「欲望を満たす」といった主観的善でもなく、それらを超えた最高に素晴らしい経験こそが最高善であるという。

例えば目の前に花がある。その花を眺めながらあれこれと分析したり判断するのは心の意識である。そういうものすらなく、目の前の物事と自分が一体になっている状態。「見る自分」と、「見られる物事」が区別されず、ひとまとまりになった瞬間…、西田はこれを、「純粋経験」とした。西田のいう善とは、「自らの心の要求に応え、満足の気持ちになること」である。

そして人間にとって最高の満足は、「ちっぽけな思い込みを超えて、自身の無限性を感じ取ること」だという。「自分は自分なのであって、目の前にある物事は、自分から切り離されたものだ」という認識自体、そもそも思い込みである。真実の世界は、そのような区別をひとまとまりにした世界ではないかと。日大の選手はあの日、記者会見席で何を問われ、何を返したか。

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彼は主観を戒め、客観的な判断も避け、ひたすら真実のみをまさぐっていた。裁判所で証人が、「何も加えず、何も付け足さないことを誓う」と宣誓させられるのは、事実のみを語りなさいということ。日大の選手はそのような気持ちで、そのように努めていた。だから主観を述べるよう迫られるとき、言葉につまり、「それは僕の言うことではありません」と回避した。

主観の多くは嘘にまみれ、客観の多くは推量である。したがって、主観客観を意識しない状況こそ真実であり、ゆえに彼の発言には信憑性がある。人間が真実を述べることは難しいが、「純粋経験」というものに立ち返るならそれは可能だ。これまで多くの場面で人が真実を述べるところを見たが、真実に真剣に向き合おうとした人物を過去に一人だけ知っている。

「何も加えず、何も付け足さず…」それこそが真実の価値である。世間という修羅場で汚れ腐った大人たちには至難であろう。若者が大人たちに囲まれて味わう真の苦しみとは、大人たちの剥き出しの自己保身を理解するからである。子ども時代には大人の嘘が許せなかったとしても、やがてその子が大人の仲間入りをするとき、大人の都合というものが見え、分かってくる。

それを暴いていいものかという苦しみである。どういう立場の人がどういう傷を持っているかの理解はできるとして、それを知る者が他人の嘘を公に晒していいものかという迷いである。日大の彼は他人のことには触れず、自分の体験だけを語ったのは賢明である。誰もが心にキズを持っている以上、あえてそこに触れず、自身のキズだけを悔いる。そこに感銘させられた。

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昨今は芸能人らがTV番組を席捲、他人をあからさまに誹謗中傷する。そうした風潮にも影響されない日大選手に、親からの行き届いた教育が感じられた。常々思うは、「子は親を映す鏡」という言葉である。彼のプロフィールには、「尊敬するのは両親」とあった。怪我を負った相手選手への執拗な謝罪を親は求めたが、それを制止した監督とは大きな人間的質差を感じる。

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