上記の表題で記事を書いたような記憶があり、調べてみたら違っていた。青春の記憶を辿った記事はたくさん書いているが、ネガティブな青春もポジティブな青春もどちらも両輪である。青春をどう生きたかは自分のことゆえに覚えているが、自身の人生の物差しは青春期に作られたのかも知れない。他人はどうなのか?そうかも知れないし、そうでないかも知れない。
ちっぽけなことを嫌になるくらい悩んだりもしたが、すべての体験から基準という物差しが作られた。「物差し」が何かといえば、自分が何かをやるとき、単にみんながやっているというだけでは決めないということ。それこそが自分の基準値である。みながやるから気が進まないけど自分もやるということをしないでいたのは、「多勢に無勢」や、「付和雷同」批判である。
「多勢に無勢」とは、相手が多人数に対して少人数では勝ち目がないの意味。「付和雷同」とは、自分にしっかりとした考えがないのに、他人の言動に同調すること。物心ついたころから少数派を意識していた。人の真似は他人の意思で自分の意思とは違うように感じた。したがって、みながやるから自分もやるというのは、自分を粗末にしているということになる。
だからといって、人がやらないことを無理をして、正しいと思わないのにやるということもない。それではただの目立ちたがり屋だ。大勢が右を向くのは、慣習や因習であったり、その場の空気であったり、その方が無難であったりの場合が多いような感じを受けた。音楽や絵画をはじめとする多くの芸術は、踏襲の否定から新しいものが生まれたが、これも人真似を嫌悪したからだ。
みなが同じことをしている光景を見るだけでゾッとすることがある。最近特に感じるのは電車の中で右にならえとばかりにスマホをいじっている人たち。やってる人はそんなことを考えず、自分がしたいことをしているのだろうが、「この人たちは考え事をしないのか?」と思うほどに異様な光景である。電車に座って目的地に向かうときは、考え事をするいい機会に思う。
スマホ依存は批判というより素朴な疑問。我々の青春時代にスマホはなく、電車で本を読む人は結構いた。沈思黙考するような人もいたが、実際は何も考えてないのかも知れない。多くの人たちが電車でスマホをいじる光景は自分には異様に映る。することがないからスマホなのか、スマホをしたいからスマホかは不明だが、あれを異様と思う自分が変なのかも知れない。
「付和雷同」には反対だった。多くの人たちが何かに流されるのは軽薄にすら感じられた。自分のこともそうであったが、親になって子育てにもそうした価値観を役立てた。なぜに人は、「右向け右なのか?」というのは疑問でしかなかった。だったら自分が最初に左を向く人間になろうとした。それが正しいことなら何の不安もなかった。「なぜ人と同じことをする?」と聞いてみた。
「そうでなければ不安になる」という言葉が返ってくる。不思議でもあったが滑稽であった。おそらく、「人並みに」という言葉は、群れを成すことで得る安心感と察するが、むしろ自分は人と同じことをするのは違和感を覚えた。だからか、人と違う意見はむしろ当たり前の認識で、遠慮も躊躇いもなかった。が、取るに足りないことに反対や目くじらを立てることはしないでいた。
近年は、「付和雷同」の時代なのだろうか?人間には自分しかやれないことや役割があり、そのことに早く気づくことが大事かも知れない。そしてその役割を全力で出し切ることで強い自信となる。そのためには、「自分は自分」、「他人は他人」という当たり前の考えが強調される。ところがみなが同じことをしているなら、同じ思考回路の人間が多いということなのだろうか。
一抹の不安はある。「自分は人と同じではない」という考えが強かった自分は、他人は他人でいい、自分は自分であるから、他人が躊躇うことなく同じことをやるのは、「人と自分は違う」という意識が薄いのか?したがって組織や団体の中で同じような行動をとるのが子どものころから好きではなかった。運動会や学芸会はつまらないものだったし、宗教嫌いも同じ理由か?
人間は個々で違うのに、それなのに一つの真理を拠り所にするというのがどうにも納得いかない。良いものは良いでいいけれども、何かに属して偏った考えを持つより、自由にきままに各所・各人の、「良い」を、つまみ食いする方が自分には向いている。「さすがキリストさまはいいことをいうなぁ。仏陀さんもさすがである」。どこにも所属しない自由な生き方である。
宗教というのは体系である。「体系」とは、個々のものを秩序づけて統一した組織の全体。矛盾のないようにまとめられたものごとの全体。と解されているが、体系が整っているのは、組織だっているということだ。企業の社則や学校の校則、レストランで働く従業員のマニュアルも体系化されたもので、みなが一律それを守って入れば不測はないということである。
「これが正しい」ということを明文化したものは、利点もあるが人間がロボット化されている。会社や学校に規則はあってもいいが、「若者」に対する体系化した何かはない。「若者はこうしなさい。こうあるべき」というのは、大人が若者を見くびっている。ただし、「少年よ、大志を抱け」程度の抽象的な言葉に害はない。「身を立て、名を上げ」も、戦後当時の閉塞思考である。
一体どれだけの人が、「身を立てた」のか?「名をあげた」のか?該当する官僚たちの失脚をみるに、立身出世も煩わしいものかと。とはいえ、立身出世を目指す青春もあったろう。そんなことより青春を楽しんだ人もいよう。どちらが後年に良い想い出となり得るか?「青春をどう生きるか」の答えはない。なぜなら、「自分は人と同じでない」からだ。青春は安易であるより蹉跌である。
誰に対して、「いい子」になりたい人は、誰の期待にも応えようとする。それが嵩じて、他人の期待に応えられないことでの他人の非難を恐れる。おそらくその様に生きた人は、自分の人生は他人に媚び諂う人生だったと気づくのだろう。他人や社会の出してくるあらゆる期待のすべて応えられるハズがない。ゆえに期待に応えられないからといって劣等感を持つ必要もない。
学業優秀で、品行方正で、スポーツ万能で、人付き合いもよくて、誰からも好かれる人格者であって、などの人間は、実は人間なのか?親の期待に応え、教師の期待にも応え、仲間の期待に応えたいと生きるなら、その間どこかで人格が分裂するだろう。人は自らを生きるべく、「生」を与えられている。人におもねず自己に自由に生きて死んでいけばよい。