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Channel: 死ぬまで生きよう!
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つまらん大人が若い芽を摘んでいく ③

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日大の選手は会見の席上こう述べた。「監督やコーチから『やる気が足りない、闘志が足りない』といわれてメンバーから外された。監督からは、『宮川なんかはやる気があるのかないのかわからない』といわれ、コーチからは、『練習に出さない』などといわれた。実際このようなことを言われたら、目の前は真っ暗となり、精神的に追い込まれていたのは想像できる。

『愛を乞う人』の主人公は、凄惨極まりない虐待を受け、それでも母が好きだったという。その理由は髪を掬うのが上手と母から褒められたからだという。それが鬼畜の母を憎み切れなかった要因である。子どもにとって、゛親から褒められる゛ことがどれほど喜ばしいことなのか。自分は母から褒められたことはただの一度もなかったが、やはり褒められたら嬉しかったろう。

当時の自分はなぜか母親に褒められたい、好かれたいなどなかったが、それでも仲睦まじい母子を羨ましく思いながらも、実感は湧かなかった。人間は無力に生みつけられるが、そうしたなかで親や周囲の期待に沿って生きていこうとする。にもかかわらず、親や教師や周囲の期待に応えられないことからくる罪悪感に苦しむ子どもたち。それが習慣的・永続的になるとどうなるか?

「やはり自分は親や教師のいうような、ダメな人間なのだ」という誤った自己肯定をするようになる。人間は周囲から、「期待」された、「役割」を演じようとするもので、できるなら親や教師から期待に沿うことを願う。自分がそれに応えられないと分かると強い劣等感に苦しむ。日大の選手も、「期待」の重圧に苦しみながら、優しい心を強くしたいと試みていたようだ。

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彼がそういう精神状態であったことくらいは、運動部のコーチや監督を長年やったものなら分からぬはずがない。穿った見方をすれば、わざとそういう状況に追い込み、試合に出すことを引き換えに無理なことを実行させる悪辣な人間がいないとは言えない。そのあたりの事実関係は、「腹に一物」の分野だから想像でしかないが、人間の心理を巧みに利用する方法としてはあり得る。

また、そういう役目に相応しい人間は、悪気のない純粋な人物が選ばれる。彼がその様に利用されたという証拠はないが、もしそうであるとするなら、該当する根拠はいくらでもある。練習にも出れないで沈んでいる彼にある日コーチが、「試合にでたいなら出してもらう方法があるぞ」といわれたら、おそらく心はときめくだろう。『仁義なき戦い』を見ているとよくわかる。

登場人物はヤクザとはいえ、性格的には単純であり、人間として悪気はなく、気持ちが純粋な彼らは、親分のためならたとえ臭い飯を食べる羽目になっても鉄砲玉になろうとする。映画はそういうヤクザの悲哀を描いている。一つのストーリーとしてだが、もし強豪チームのQBを何とか怪我をさせるという計画を立案し、さて実行者は誰?ということになれば、彼は相応しい人物であったろう。

つまり、そういう精神状態に仕立て上げられたのかも知れない。彼は井上コーチとは信頼関係があるといった。ならば井上コーチが実行者に相応しい人物を推挙するなら迷わず彼であったろう。醜悪な人間どもが相手チームのQBを葬り去るという非情な方法を立案した証拠はないが、現実に事が起こっており、彼もまた井上コーチから、「QBを潰せ」と命じられている。

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そのことについて井上コーチは記者会見でこう述べた。「彼に『QBを潰せ』と言ったのは事実です」と認めた上で、「けがをさせろとは言っていない」。こういうのを言葉のあやという。ヤクザの親分が子分に殺人を命じるときに直接言葉で、「殺せ」といわなくても、「やれ」、「始末しろ」、「消せ」、「往生しろ」などの言い方がある。さらにいえば、「わかってるな!」でも伝わる。

つまり、直接的な言葉でなくとも、アイコンタクトや、その場の状況などから、子分は親分の意図をつかみ取る。にも拘わらず井上コーチはあくまで言葉尻をとり、「潰せとはいったが、怪我をさせてこいと言っていない」と、我が身に降りかかる火の粉を払うために人はどんな言い方でもする。「いいな、怪我を負わせるのだぞ」などと直接的な言葉で指示するものがいるだろうか。

「怪我をさせろと言ってないのだから、相手が怪我をしたのは自分の指示でない」と逃げである。人間は人間が何かを知るだけに、こういう逃げ口上を許さない。井上コーチに何ら意図がなくて相手選手が怪我を負ったなら、「自分が指示を学生に曲解させた」という責任を感じて叱るだろう。反則を犯した選手は退場後に、テント内で自らの非道な行為に悔し涙を流していた。

こういう状況がありながらも井上コーチの都合のいい口実で逃げる。犠牲者となった二人の学生をしり目に、教育者としてあるまじき態度である。意図した行為にはそれなりの対応が、意図せぬ行為にはそれなりの対応がある。井上コーチの苦しい弁解を行為した学生はどのように捉えただろう。「自分はこういう人を信頼していたのか」という愕然とした思いと推察する。

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人間がとどのつまりに自分の利益を優先するのはむしろ当然である。ゆえに、「信頼していた相手に裏切られた」というようなことが度々起こるが、それは仕方のないことである。自分の利害を超えて相手を庇ったり、助けてくれたりの人間はそうそういないがゆえに、そういう人間に出会うことは貴重な体験となる。「信頼」というのは、その時に実感するものではないか。

彼が井上コーチを信頼していたのは、「間違っていた」と思うことだ。人間不信に陥るよりも、「人を信頼するというのは大変なこと」だと知ることが生きる知恵で、人間は誰も自分のために生きていくことをしかと学べばよい。人を安易に信頼するから、「裏切られた」となる。それも若さであろう。逆に自分に接してくれる人間に信頼されたいなら、絶対に裏切らないこと。

今回もし井上コーチが、学生の言うことをすべて認め、「彼には迷惑をかけた。すべては彼のいう通りです」と謝罪したなら、そこで初めて学生とコーチに信頼関係が生じる。たとえ間違った指示であれ、それを行為した愚かな自分であれ、二者間に事実の共有ができたなら、それが信頼関係である。大事なのは過ちを起こしたことではなく、過ちを正直に認める潔さ、勇気である。

人間は過ちを犯すために生きているようなもので、絶対的無謬などあり得ない。選手の会見を様々な視点で眺めていたが、彼の言葉に作為はなく、その場その場、自らの考えで対処していた。しばしの沈黙もあれば、「自分が言うことではない」と遮る場面もあったが、何も隠さず、「ここには事実を述べるために来た」という毅然とした彼の清潔な態度に心が洗われる思いであった。

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失うものがない人間の強さである。人は何かを守ることで嘘をつく。それも人間であろう。が、「何を守るか!」についての正しい選択を教育者は誤ってはダメだ。学校は生徒を守るところであり、さらには大人は小人を守り、親は子を守り、国は国民を守り、会社は雇用者を守り、強者は弱者を守る。内田氏は自己保身に終始したが、井上氏は強者を守ることで弱者を斬った。

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