「反則の指示があったとしても、正常な判断ができなかった自分の弱さ。」
誰のせいにもせず、すべてを自分の弱さだと言い切った彼の強さを称えたい。考えてみれば分かることだが、他人のせいにして罪を逃れようとするのは、愚かで卑怯な弱い人間であり、すべてを自身の一心に留める人間は、他人の鬩ぎを恐れぬ強い気持ちがもたらす強い人間である。そういう人間は、「いい子になんかなろうとするな!」と、自らを鼓舞することになる。
こういう気持ちを胸にかざせば間違いなく人間は強くなれる。日大選手が発した彼の当時の境遇は、「監督やコーチが何を望んでいるか?」が支柱であった。こういう精神状態に置かれた人間は、善悪の判断より組織の利益が優先する。一人の善良な人間の心を歪め、捻じ曲げることも組織のトップはやれてしまう。バカが上に立つことで有能な人間ですら崩れて行く。
バカな親が子どもの心を捻じ曲げるように、バカな監督やコーチが選手に致命的ともいえる後悔をさせてしまった。元監督は緊急会見の席で、「彼の心の中を読み取れなかった」というが、選手を利用することしか頭にない方便である。会見をした日大の選手は同情に与することもなく、一切を自身の弱さと断罪したことを考えると、自己保身の醜さが伝わってくる。
組織内で干されたからといって、犯罪に手を染めるのは言語同断であるが、彼は監督の期待に沿う規格品でいたかった。監督・コーチは勝つためのチーム作りをするわけだから、彼らの眼鏡に適う選手がいい選手とする。そのことも分からないではない。だから監督・コーチは練習で選手を鍛え、組織プレーを高めたり戦略を講じたりでチーム力を向上させるのである。
プロボクサーの亀田大毅が、内藤大助との試合でセコンドを務めた父の亀田史郎から、ひじ打ちの反則を指示されていた。汚い手や反則プレーで勝とうとする指導者は、結果的に才能ある選手を潰してしまう。内田前監督は、「スポーツにフェアプレイは当たり前のことであり、わざわざ強調すべき文言として捉えてはいない」などと正論をぶつ人間の影が見え隠れする。
ともすれば犯されがちな、「フェアプレイ精神」は何度も口にすべき重要なことで、その試合ごとであれ言い過ぎというのはない。内田前監督と会見に同席した井上コーチだが、彼らの特徴は、「正直言って…」という前置きの多さである。こういう言葉を多用する人間は、間違いなく嘘つきであり、だからそういう言葉を借りて信ぴょう性あるかのごとく見せる。
ある女性が卑劣なセールスマンに手籠めにされ、自分はその後始末で会社に乗り込んだことがある。「ノルマがきついので名義だけを貸してほしい。支払いは自分がするから」ということで、最初の一回以後は支払いが滞った。電話で催促してもナンだカンダと逃げ回る。クレジット会社からの督促は容赦なく会社にかかってくる。彼女は滞り分を自ら支払うことにした。
何という卑劣な人間がいるものか。何でそんなことをしたのかを責めた時に、「僕が嘘をつく人間に見えますか?」が殺し文句であったのが分かった。善良な人間は、人を疑わない。いくら不安があっても、「嘘をいう人間に見えますか?」といわれると返す言葉がない。それを見切った非道な営業マンである。彼を呼び出し会話の録音を命じ、それをもって会社に乗り込む。
証拠は具体的であり、大事である。「言った・言わない」が横行する世の中において重要なことは、「人を見たら泥棒と思え」という慣用句であろう。性悪説を信奉し、危機管理意識の希薄な日本人は、人を疑うことを悪だという考えにあるが、本当に信じたいがゆえに疑うことは悪でも何でもない。見ず知らずの人間の言葉だけを信じることはむしろ批判されるべきだ。
どの世界にも悪人がいるように、政治家や官僚やスポーツ界にも悪人はいる。一国の指導者にも悪人がいるのだから、世俗の末端には悪人の山である。世知辛い世の中ではあるが、「自分は嘘は言わない」という人間は信じないことだ。嘘を言わない人間は、まずはこういう言葉を発しない。日大のコーチも監督も、「正直言って」を多用するほどに嘘つきである。
人を判断するのは大事であるが、残念なことにこれは人間の能力でもある。儒教的な「恩」や「義理」に蹂躙された日本人は、そういうものに囚われがちであるが、自分を強くするという一環で、他人に厳しくという見方も重要である。他人に厳しくするのは言い換えるなら自分に厳しくでもある。親が子を甘やかせるのは、そうする方が自分に心地いいからだ。
自分を甘やかすから相手を甘やかせる。この図式を知っていれば、他人に厳しくあるのがいかに大事であるかも分かってくる。人は誰も現実を生きているのに、現実が見えないのはなぜだろうか?おそらく、現実に不満があるからだ。現実に満ち足りている人は、つまらぬ誘惑に引っかかることはない。電話攻勢などで人を騙そう、引っかけようとする営業は数多ある。
「悟る」とは何か?決して苦行し、精進して得るものではない。「悟る」とは現実を受け入れることであろう。自分を知る、周囲を知る、相手の思惑を看破する、それら一切が悟りの境地である。自分が何ほどのものであるかも知れば、歯の浮いた世辞の類に騙されることもなかろう。身の程(自ら)を知り、足るを知れば楽に生きることも可能。楽がいいに決まっている。
書きながら自らに言い聞かせる。頭で文言を復唱することより、書くという行為は「知る」を強めることになる。長い人生を送っているが、今回のような大学生が単独で(代理人は携えていたが)、大学のスポーツ部であったことについて中身を詳(つまび)らかにするなど、初めてのことであった。それくらいに大学や指導に携わる者が地に堕ちたということではないか。
学生一人が巨大な組織に孤軍奮闘する様は、日大のみならず他の大学関係者にどのように伝わっているのだろうか?真実を訴えようとするもの、それを阻もうとするもの、こういういがみ合いの図式が果たして教育現場で起こっていいのもか?そういう問題提起をかの学生はしたのである。これは教育現場の在り方としてのっぴきならぬ羞恥以外のなにものでもない。
大学でなく、小学生や中学生、高校生が同じことをしたと仮定し、考えてみるなら、今回のことがどれほど異常であるかがわかろう。20歳そこそこの大学生などは、まだまだ子どもに毛の生えた程度であると、見くびっていいものだろうか?今回のことは見くびったことで起こった。これまで指導者と持て囃された大学の教育関係者が、学生一人に完膚なきままに打ちのめされるのは痛快ですらあった。
日大選手の気の優しさが、監督・コーチに規格外品とされた。スポーツ世界に身を置くものがその才能を規格外品と烙印をおされるなら仕方ない。が、自身の身勝手な欲目から子どもを規格外品と定める親もいるにはいる。どちらもあってはならない。なぜなら、人間存在の本質を見極めることもできない、そうした無能な親や指導者の下す判定はあまりに子どもを踏みにじったもの。
今回、彼の行動は、上が下を踏みにじったことへの象徴的な出来事と見ている。彼は自己断罪を口にしたが、口に出さないだけで周辺に対する異議がなかったのではない。が、それを口にすると自己断罪が霞んでしまうからだろう。自分も何がしか責任を自己で全うをする時、あえて周辺に目を閉じ耳を塞ぐのは、自らを愚かにするだけで、自己向上に何ら寄与しないからだ。