日大アメフット違反タックル問題の当該選手の会見を見た。まだ20歳になったばかりというが、日本中が注視の的になるようなすることになった彼に、この経験がどうプラスになるのかを考えてみた。その前に、なぜ20歳そこそこの大学生が、こういう経験をする羽目になったかを考えてみるに、すべては大学及びアメフット部に携わるの大人たちの不甲斐なさである。
彼は今回の経緯について、事の詳細を時系列に読み上げた。おそらく、何も加えず、付け足さず、あった事実を彼の目線で書いている。それと同じことをなぜに内田監督はいえなかったのか?「それは後日文書で…」といったのが逃げ口実でないなら、内田監督は当該学生と同じことを記すのであろうか?それはなかろう。絶対にないと断言してもいい。
事実を誠実に、つまびらかに、そんなことを内田氏ができるハズがない。理由は何より事実を恐れているからで、なぜに事実を恐れるのか?彼がつまらんことを言ったからで、我々から見れば内田氏がつまらんことをいうのは、彼がつまらん人間とすれば驚くに値しない。が、彼は自分がつまらん人間などと思ってないだろう。現に彼は大学の常務理事の重職にある。
大学の理事がつまらん人間であってはならず、だから内田氏はそう思ってはいない。彼の地位が何であろうが、我々から見ればサイテーの人間である。それが世間にハッキリした以上、日大はそんな人間を理事に置いていいのだろうか?即刻クビにされるべきだが、それをしない日大はつまらん大学ということになる。それでいいなら勝手になされよ。
しかし、つまらん大学というのが公になった以上、大学を管理する文科省が動かねばならない。私大補助金カットも含めた今回の監督不祥事は、大学の常務理事の不祥事でもある。国が動かないなら世論は納得しないだろう。「アメフット部のことと大学の理事職とは関係ない」と内田氏はいうが、理事が監督をやろうが、監督が理事をやろうが、監督は理事である。
監督の不祥事が理事職の不祥事であることに気づいていない。内田氏は理事で収まっていればそれでいいとの腹積もりのようだが、こんなつまらん人間を誰が辞めさせられるのか?監督を辞めても理事で院政を引くことになれば、アメフット部員の望む「人心一新」も叶わぬばかりか、影響力は今後も残る。内田氏の理事解任という自浄力が大学にないなら方法はある。
クーデターを起こせばいい。アメフット部員全員が、内田氏の理事解任がなされないなら、全員退部を事務局に突きつける。全共闘世代なら、それを首謀し、音頭をとるような人間が必ずいたが、今の時代にそれだけのリーダーシップを取れる人間はいないのだろうか?同僚部員が内田というつまらぬ人間のせいで、退部することになったことへの怒りはないのか?
このまま内田氏が監督を辞めただけで済む問題でないということを、大所・高所からしかと眺め、見据えて動く人間がアメフット部にいることを望む。内田氏は教育者として不適格な人間で、理事継続をこのまま野放しにしてはいけない人間である。ただの大学生、ただのアメフット部員だけでなく、燃える想いをもってクーデターを首謀するアメフット部員を待ちわびたい。
内田氏はアメリカンフットボールを滅ぼそうとする悪魔のようだ。個人を考える場合に、社会の側から個人を、社会を考える場合には、個人の側から社会を考えるということが大切である。「どんな親でも親は親」という考えを自分が嫌悪するのは、道理として間違っているからだ。つまり、どんな親でも親として尊敬され、崇められるなら、こんな楽な仕事はなかろう。
自分は親をその様に考え、捉えていた。凡夫であれ愚妻であれ、「夫である」ということだけで、「妻である」ということによって、夫として権利や妻としての権利を要求できるなら、怠け者にとってこれほど有難いことはない。特に日本のように結婚をスタートとせず、ゴールという考えが支配的な民族にとって、それだけで地位は確保されたような気分に陥る。
夫はそれなりに大変であり、妻も大変であり、双方は努力をして家庭を築いていかねばならない。それ以上に自分が問題にするのが、「親」という稼業である。親がどれだけ大変であるかは、親によって子どもの人格形成がなされるという、この一点をとってみても、安穏としてはいられない責任が存在する。熱意だけではダメ、真剣だけではダメ、しかと責任を受け入れる姿勢がいる。
同じことを内田氏に充てて考えてみる。アメフット部の、「監督」であることで、権力も権利も手中にできるならどんなバカでも監督になれる。今回、彼がつまらん監督であったことが部員の会見で露呈したが、不適格を自身で認めて辞任したのではなく、彼は社会的な「力」で辞任に追い込まれた。監督として不適格人間が、大学運営の理事として適格であるハズがない。
「どんな親でも親は親」を否定するように、「どんな理事でも理事は理事」ではなかろう。社会の側から考える限り、自らの道具性として社会のために働く人間こそが理想的なのである。個人の側から考えた社会とは、自らが全体的人間であること。つまり、人格性を尊んだ人間として存在し得るような社会でなければならない。個人を内田、社会をアメフット部とみたらいい。
つまらん監督が存在したという事実が、一人の部員によって白日の下に晒された。彼は20歳の若者だから、美能幸三のように、「つまらぬ親分がいたから…」という言い方はできないのだろう。老いた自分のような、「つまらぬ監督」という見方はできない。もし、20歳の自分があの場にいたとしても、「内田監督は人間的につまらん人です」などは言えない気がする。
つまらぬ親がつまらぬ言葉を吐くように、つまらぬ監督はつまらぬ指示・命令を出すも、20歳の青年は、監督のつまらぬ指示に従った自分を責めている。つまらぬ指示をする監督はつまらぬ人間ということより、つまらぬ指示を聞き入れたつまらぬ己を断罪するのも潔い。桑田投手はコーチの死球指示を断ったのは晩年の40前の年齢ゆえに自己主張も可能だった。
20歳の若者が社会問題の収束に腰を上げたのは立派である。逃げ回る大人を尻目に勇気ある行動は、彼の今後の人生に実をつけるだろう。学生を矢面に立たせ、逃げ回る大人どもの不甲斐なさ。地位が人間を腐らせるのか、腐った人間が地位に連綿とするのか、失うものなき若者に比べ、総理も日大も霞んで見える。つまらん人間がトップにいることで若い芽を摘んでいる。