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依存から決別で得る「強さ」

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日大アメフット部悪質タックル問題は、内田正人監督が関学に出向き、大学側と被害選手の父親が謝罪を受けたという。しかし、被害選手の父親は、「日大選手がどうしてあのようなプレーをしたのかの説明がなく、指示があったのかについて(監督が)話されなかったので釈然としない」と遺憾の意を示していた。内田監督は頭を下げればそれで謝罪と思っているのだろう。

謝罪が何かを知らないバカな御仁である。謝罪は罪を犯した相手に許しを乞うためにではなく、罪を犯した相手の許せない心情を少しでも緩和したり、救えるものなら救いたいという行為でなければならない。それが分かっていればどうすべきか、どうあるべきかというのが見えてくるが。今回もそうであるように、多くの謝罪は自らを救おうと、そのためになされる場合が多い。

よって真の謝罪とは、自らを放棄しなければできるものではないし、相手が納得するためには、自らの行為の真実を隠すことなく明らかにすることである。それを「したい」という人間こそが謝罪をする資格者であって、内田監督のような態度をとれば相手はさらなる怒りを増幅させるだろう。謝罪が難しいのは、その人が人間的な優しさを持っているかに尽きるからだ。

自分は小学生のとき、相手に石を投げて頭に大怪我を負わせ、被害者宅に父と二人で謝罪に行ったことがある。相手の親から容赦ない言葉を浴びせられ、畳に額を擦り付けて土下座をし、「申し訳ありません」を繰り返す父の姿はいたたまれなかった。もう二度と父にこんな無様なことはさせられないと強く心に刻んだのを覚えている。あのような謝罪をできる父にもびっくりした。

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さらに父は自分を一言も叱ることをせず、一切その話を避けてくれた。おそらく父の目にはしょげ返る自分が映っていたのだろうし、それで十分と追い打ちをかけなかったのだろう。それを見ても父は優しい人だった。優しい人ゆえにあのような謝罪ができるのだろう。謝罪とは、相手を納得させるために努めることで、内田監督の言動は、彼の実につまらん人間性を現している。



極悪人にも良心があるし、周囲から善人と呼ばれ親しまれている人に良心の欠片もない人もいる。人間は蓑を被って生きる動物ゆえに、普段の生活中では人間の深層や本質は分からぬものだ。内田という人物があらかたどういう人間であるかは、一連の言動から掴み取ることができる。日大アメフット部OBも言うように、「彼は人の上に立つ人間ではない」の意味するものは…

会社にも同じような人間がいて、自分の手柄のためにはどんな手段もいとわず、そのため部下に脅しをかけたり、脅迫めいた言葉で人間性を剥ぎ取り孤立させる。孤立した人間は善悪の判断はついたとしても、上司に取り入られたいがために、悪を行うようになる。つまり、歪んだ支配者というのは、孤立を武器に相手を手名付け奮起させようという悪辣な手段を講じる。

こういう監督がどういう功績をあげたとしても、部下を人間的に扱わぬ点において批判されるべきで、熱血漢とか名将と呼ぶなどとんでもないと考える。自分はこういうリーダーは狂信者である。こういう狂信者は、あざけり、恥をかかせることによって以外に彼を押さえつける方法はない。大勢の民の前でこれら狂信者どもの偽りの自尊心を屈服させる罰を与える以外に救いようはない。

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誰の目にもあきらかなる内田監督の意図は、今回の問題を解決する手段として監督辞任で収め、そのままナンバー2といわれる常務理事の地位に居座ること。そのことに異議を持ち、待ったをかける人間がいないことを彼は踏んでいる。内部の自浄に危機感を抱く日大教職員組合の有志が、「内田氏は監督辞任だけでは済まない」とした抗議を盛り込んだ声明文を発表した。

下っ端の職員たちが、自分たちの雇用権を牛耳る理事や役員に物を言うのは勇気もいるが、それでも立ち上がる人がいるからこの世は悪の枢軸から守られることにもなる。どういう企業や団体においても、トップに自浄作用のない組織はダメとしたものだが、内田氏は現理事長の子飼いであることからして、「泣いて馬謖を斬る」という明晰さはどうにも見えてこない。

内田氏のような厚顔無恥な人物は、大学側から理事職を解任されたとしても反省はしない人間であり、仮に職を失うなら多少の後悔はあっても、逆恨みを増幅させるだけ。こういう輩は衆目の前で恥をかかせて奈落の底に突き落とす以外に手立てはない。この問題の当該者である日大の選手が本日記者会見をすることが、昨日選手側の代理人によって発表された。

日大側は21日、関学大の被害選手の父親が大阪府警に被害届を提出したことを受け以下の声明を出す。「反則行為によって、被害を受けられた関西学院大学の選手に心より謝罪とお見舞いを申し上げます。被害届を出されたことを真摯に受け止め、日本大学として、第三者による委員会を設けて、あらためて原因の究明に取り組んでまいります」。第三者委員会とは、「駆け込み寺」。

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金を払って雇う弁護士が第三者でないという茶番は子どもにも分かることで、形式的なことで茶を濁すのがどうにも慣例化している。関学大の小野宏ディレクターは先の会見で、悪質な反則行為を繰り返した日大選手に対して、「本人(日大選手)がこのことについての真実を自分の口から話すことが、彼のこれからの人生のためにも必要と思います」と話していた。

その通りだと思う。加害選手が関学側から傷害容疑で告発をされたとしても、監督からの、「指示」がどういうものであったかについての具体的な立件は難しく、たいていの場合は双方の水掛け論に終始する。関学側は事実がどうであったかを望んでおり、日大該当選手の発言が真実に足るものと判断なされるなら、被害選手の親も訴状を取り下げると思われる。

加害選手は監督の指示であっても、指示が選手自身の欲望を満たすものであったとならば、罪を免れることにはならない。「100万やるから人を殺してこい」といわれて、殺せば問答無用の犯罪である。元巨人軍の桑田選手のように、コーチから、「ぶつけろ」と指示されて断る者もいたり、監督の指示であったとしても罪が免れない事は加害選手も分かっていよう。

もし自分ならどのように言うだろうか?まずは選手として試合に出たかったという欲は認め、監督の差し出す独饅頭に食らいついた己の愚かさを正直に晒す。そうして、内田監督のようなバカな指導者を持ったことへの後悔の念を切実に語る。『仁義なき戦い』の手記を描いた美能幸三が、「つまらん人間が上に立ったから多くの血が流れた」という心境と同じもの。

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人が人を明晰な批判をするとき、それに立ちはだかる恩や義理が日本的な心情とされる。「どんな親でも親は親」という言葉は、日本的な道徳律の臭気を感じさせられる。バカな親はバカであり、バカな監督はバカであるというのは当たり前の自明。「義務」や、「義理」は大事でも、正しく行使、正しく供与されない場合もある。「孝」に尽くすは、家庭内に慈愛を実現することばかりではない。

会見をする日大の学生は自分を取り巻く、「つまらん人間(監督)」、「つまらん組織(大学)」からの決別を期した。ヒラメ官僚にみる、「自らの命と引き換えても組織を守る」という考えの根本にある依存心は、正しい行政執行のために取り払われていくべきだ。終身雇用が崩壊した日本社会は、甘えが取り払われたことによって、労使関係が対等に近いものになりつつある。

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