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「ウソだろ?」ある光景2題

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自然の中を散策するウォーキングには、室内で行う運動では味わえない野外の解放感がある。街や野山の風景だけでなく、行き交う人や野良仕事に勤しむ人たちの生活感が伝わってくる。こうした一切が、ウォーキングのリフレッシュ効果である。行き交う人々との一期一会の触れ合いは、「生」の実在感を感じさせるし、時にべっぴんさんのおしりを眺めながら歩くこともある。

あまり近寄りすぎるとふいに振りかえられることもあったりするが、それはおそらく尻を舐め回していたのがバレのたかも知れない。女性は目ざとく、尻にも目がついていることに驚かされるが、あれは女性ならではの危機管理意識なのか。後ろからひたひたと迫ってくる足音を聞けば気にもなるのだろう。男なら振り返ることもないし、後ろの足音など気にもならない。

以前女性から聞いたことだが、背後に人がいるだけでつけられてるように感じられ、その際、バッグを開けて中を見る素振りをして追い抜かせるという。それもあって若い女性の後ろにつくのは躊躇われ、一気に抜き去るよう心掛けている。高年齢のおばさまともなるとさすがに気にする様子はない。女性は年を重ねるといろんな意味で強靭になっていくようだ。

「子どもを産めば怖いものなどなくなる」という言葉がある。それが女性の本能的強さなら、神は本質的に弱い男に強くあれと、「力」を与えたのかも知れない。出産に限らず、自分が何がしか強くなったかどうかの自覚は難しい。若い時に比べて自分がどう強くなったのかについて、それとなく分かるのは、「物が見え出した」こと。物が見えるということが強さである。

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将棋も強くなることで相手の指手が見えるものだ。思考にない手を指されて驚いたり困惑したりはない。自分より強い相手と指すと、困る手を多く指されて歯が立たない。強い者が勝ち、勝った者が強いとされる世の中。数日前のウォーキング途中、カラスが路上でで何かをつついている。かなり前方なのでよくは見えないが、近づくにつれて動いているのが分かった。

ネズミでも捕まえたのかと思いながら、さらに近づくとカラスは飛び去り、そこに残されたものは何と生まれて数日程度の二匹の子猫だった。こんなところに捨てられたのだろう。一匹は目がつぶされ明らかに見えていない。猫は好きではないが、動物愛護本能か、とりあえず側溝の金属蓋を開けてそこにかくまう。カラスの被害から子猫を守る唯一の処置に思えた。

最善とは言えないが最悪の事態を防ぐ方法である。子猫は側溝から外には出られず、そのまま飲まず食わずなら死ぬだろう。それならカラスの餌になるべきか?「食物連鎖」とは、食う者と食われる者の関係で結びついた生物間のつながりである。視点をカラスに置いてみれば、カラスとて生きていかねばならない。が、人間の情緒はそれを許さない。だから自然に関与する。

食べるカラスに罪はないし、食べられるネコに罪はない。子猫を道端に捨てた人間の罪である。一時的にかくまってその場を離れた自分はどうか?関わる限度というものを考えれば罪はないが、子猫のその後を考えると心が痛む。その場から立ち去れない自分は遠くからその地点を眺めていた。カラスが蓋のない側溝から侵入するのか、誰かが鳴き声を聞いて手を差し出すのか。

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急ぐ用事もないので時間を忘れるほどに眺めていた。人の往来がほとんどない急勾配の坂道だから、結局歩くものはこなかった。人の罪はさておき、自然の厳しさに耐えられぬならそれも自然淘汰の原則だ。後ろ髪は引かれながらもその場を後にした。野良猫の産んだ子なら親猫の加護があるだろうから、おそらく飼い猫が産んだ望まぬ子を人間が捨てたのだろう。

ある日の土曜日、ウォーキング途中に公園のベンチに腰かけてジュースを飲んでいた。小学1年生くらいの男の子二人でキャッチボールをしていたところに、20代前半くらいの青年が置いてあったバットで、二人にノックを始めた。15分くらいの短い時間だったが、彼は満足したのかノックを止めて子どもたちと談笑、すると一人の子どもが、「おじさん、ありがと」といった。

知らない人にちゃんとお礼をいえる子どもは今どき珍しいと感じさせられた?親がキチンと躾けているんだろうと思いながら見ている矢先に青年がその子にこういった。「おじさんじゃない。お兄さんだよ」と、その光景に、「マジかい、ウソだろ?」と耳を疑い青年に目をやる。スポーツマンらしい高身長の彼がこんなことをいうのか?と驚き、あれこれ頭がめぐり始めた。

青年はベンチの自分にちらりと視線をやり、そのまま公園から出て行ったが、正直いうと自分はその青年に声をかけて話して見たかった。ただの好奇心というだけであちらは望まぬことだろうから呼び止めなかったが、会話をすることになったとなら、自分の第一声は、「さっき聞いていたが、何でおじさんが嫌なんだ?」と聞いたかも知れない。彼はどう答えただろう。

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自分の興味はそこにあった。それを膨らませると、「なぜ、彼がおじさんと呼ばれることを嫌悪するか」であり、さらに彼がどういう育ち方をしたかに繋がる。子どもにおばちゃんと呼ばれ、「おばちゃんじゃない、おねえさん」と訂正させる光景は幾度か見た。図々しんおは、充分におばちゃんでありながら、「おばちゃんじゃないよ」というおばちゃんには笑った。

子どものいう、「おばちゃん」を訂正させて、何が満たされるのかは女性でなくとも理解はできる。女性はそういうところにも感情が動くのだろう。が、男はそうではないと思っていた。どう考えてもそんなことはあり得ない、想像すらもつかない。だから、この若者のことが気になった。この世には男と女、おじさんとおばさん、爺と婆しかいないが、両性類もいる。

上記と同じ光景で、もし若者がマツコやミッツマンなら、子どもは、「おじさんありがと」なのか?それとも、「おばさんありがと」なのか?呼ばれた側は、「おじさん」、「おばさん」どちらを望むのか?それとも、「おにいさん」または、「おねえさん」といわれたいのか?訳の分からない人間もいる世の中だが、せめて、男と女くらいの区別はしかとを望みたい。

オカマや女装愛好家はイロモノゆえ世間に居場所がない。働き場所はそれ系のバーやクラブとなる。スーパーのレジ面接に応募しても落ちるだろう。オカマのレジさんに、「ありがっとぉん~、おほほ」など言われると寒いし、「気持ち悪い」はこういう時にこそ使いたい。テレビメディアからすれば、面白がられるのは、「興味ない!」と無視されるよりはいい。

イメージ 5「楽しくなければテレビじゃない」をコンセプトに、お下劣も下品も何でもアリのフジテレビが見るも無残に凋落した。原因はいろいろ言われているが、なんといっても、「内輪のバカ騒ぎ」番組に終始した路線が、完璧に飽きられ、見放されたという見方である。こんなことばかりやってると、視聴者は置いてきぼりにされ、「お前らで勝手にバカ騒ぎやってろ」となる。

見るだけではもはや数字は取れない。視聴者参加型の双方向番組こそがこれからのテレビメディアの在り方だろう。「勝手に作って、勝手に送ってくる」とう一方通行が、十数年前からのテレビ批判の先鋒だった。視聴者の好き嫌いや生理的感覚などを考慮せずとも、"制作者側の感性"のみで自由に番組を作れば、"勝利の方程式"だった時代ではなくなってしまった。

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