同じ目の色肌の色&髪の色の日本人は単一民族とされ、異質を排除する傾向にある。金子みすゞの『みんなちがって、みんないい』は、それぞれが別々でも優劣は無いこと、さらにはそれぞれが素晴らしいと表現した。いじめの要因となる異質や異端を、素晴らしいと教えないのは親の責任である。子どもの感受性は高いが、それ以上に高い感受性を親はもつのがいい。
小学生の子どもと外出先で脳性マヒの人を長女が振り返って見た。クルマに戻り、それを話題にした。「さっき、障害の人を見たろ?ふつうに見るのと、ワザと見ないようにするのとどっちがいいと思うか?」と、1人1人に言わせた。全員、見ない方がいいと答えた。最後に、「見てもいい。大事なのはどういう気持ちで見るかで、どういう気持ちで見たらいい?」と、再度問う。
子どもたち全員が、「かわいそうと思って見るのがいい」といった。「かわいそう」という同情は、無意識に人を見下げた心理だが、子どもの、「かわいそう」は大人の量りとは違って邪心はない。理解させるのが難しいので、「かわいそうと思って見るなら、見るのをやめて、ワザと見ないようにしなさい。かわいそうなど思わなくていい」。上手く言えない。後は彼らの宿題だ。
人をいじめて優越感に浸る子どもは不幸である。いじめがなぜいけないことなのか?それが分からないだけでも不幸である。彼らの心の奥にあるやるせない思いが、止めたくても止められないしがらみを背負っている。愚かで弱く哀しい存在であるがゆえに、それから脱したいのと、目先の至福感の浸りたいがために他人を不幸に突き落とすことが快感なのだろう。
彼らは間違いなく欲求不満である。欲求不満は人を攻撃的にするが、罰があればそれを怖れて攻撃を抑制する。いじめは怒りであり、それを他人に向ける行為である。人が苦しむのを見て潜在的なストレスを発散させているのだ。彼らが隠す我が身の一切を引っ剥がして孤立させてみると、おそらく泣き喚く以外に何もできない。凶悪犯を追い詰めると同じ状態になる。
彼らは自身を別の人格に見立てて虚実を生きている。そうした虚飾に生きる人間は、真実を前にすれば自己が崩壊する。人間の欲求には、欲望~快楽の系列と、規範~善(道徳)という系列に分かれる。どちらを目的とし、どちらを目指すかは人によるが、人間がいったん得たものを失うエネルギーは半端でない。虚飾の自分を捨てる時、彼(彼女)らは自殺をせねばならない。
そういう人間を何人ばかりか見たが、彼らは決して良心がないわけではないのに、ことさら良心に無関心に生きて行こうとしたのだろう。道の選択を誤ったのだ。今の若者を見ると、どこか不幸に感じるが、彼らは我々が考えるほど不幸でないのかも知れない。彼らにとって献身の対象はあるのだろうか?あるいは、献身の対象を失っているゆえの不幸なのかもしれない。
「AKBなんかに入れ込んでうちの息子はどうなる?」と親が思ったところでどうにもならない。「うるせー!ほっといてくれ」といわれてオシマイだ。上のケースはありがちな親と子の世代間バトルだが、握手券欲しさに同じCDを数十枚、数百枚買わせることを目論むスタッフサイドの勝利である。違法でないならどう儲けようろ文句を言われる筋合いではないという時代。
握手商法そのものが問題というが、この手を考え出した者が頭が良いというしかない。つまり、考え出さなければこういう事態は起こらなかったのだから、社会倫理的な問題はあっても、頭脳者の勝利であろう。バカな人間がバカと気づく以外に手立てはない。それが、「バカは死ぬまで直らない」という表現にいわれている。これはつまり、自分でも気づかぬということだ。
子どもの躾けの基本は三歳までに決まるというが、親の子に対する教育はその後も続く。しかし、親の言葉を子どもが聞くはずもなく、親のいうことが、子どもにとって正しいと受け入れられるならの話で、だからといって人間は口先だけで救われることはない。他人を貶したり卑下したり、いかなる批判をしたところで、そのれによって、その人が幸福になることもない。
賢い生き方とはなんだろう。賢い生き方があるとするなら、それはどんな風な生き方であるのか。賢いとは、バカが賢く進歩するということだが、進歩とは他人批判ではなく、他人に惚れ込むことだろう。惚れ込むような人、惚れ込むような言葉の数々、惚れ込むような生き方を見せる人など、いろいろあるが、人が生きていくすべての基本は模倣である。良いことを真似ること。
賢い人の賢い生き方を真似るところから始まり、やがては自分に合った生き方が作られる。電車に乗ってもゲーム、自宅で暇な時間にゲーム、どこかで少しの待ち時間にゲーム、ゲーム、ゲームな人は多い。楽しむための時間が優先されるのだろう。楽しむことはいい事だが、人間の進歩ということを考えると、楽しむことだけではない。若者が無知なのはいい。いつの時代もそうだった。
が、近年の若者に向上意欲が見られない。おそらくそれは楽しむ時間を優先するからだ。親の教育が不在であるかのような若者もいる。なぜ、親が子を教育しなかったのか?理由は、親の弱さである。親が子を突き放せるほどに強くなかったからである。子どもに見放され、捨てられるのが怖くて、子どものワガママを許し、甘えを厳しく諫めることができなかった。
子どもの甘えは無限になり、いつしか自分が甘えていることすら意識できなくなり、やがて甘えは当然の権利と思うようになる。すべてのことを親に依存し、親はその代償として子どもに依存させてもらう。パラサイトという言葉は一時期流行ったことがあった。今は依存が当たり前の時代なので、特別いわれることもない。そのこと自体が恐ろしさを示している。
「うちの子はひょっとしてパラサイトになるのでは?」と危惧を抱いた親は、心のどこかで子どもを甘やかせた思いが過っているのだろう。そんなことなど考えられないし、そんな風になる前に家から叩き出すという親は強い親である。強い親からは強い子が育ち、弱い親から弱い子が育つ。これは当たり前の図式であるが、多くの親が弱い子どもを育てている。
弱い若者にとって、生きるということは、他人に要求することなのだ。そんな彼らの人生観というのは、要求するか、死ぬかである。こうした若者は、無責任な親が、子どもに嫌われたくないと媚びた態度から学んだことである。子は親がちゃんとした教育をしなくても、学ぶことは学ぶ。良いことを学ばせるか、悪いことを学んでいくのか、これが親次第ということだ。
家庭教育でなされない誤りは、子どもを突き放すときには突き放す。これをしないで甘やかしすぎた親から甘えた子どもが作られた。親という稼業は難しい。して何が難しいかといえば、何が子どもに悪で、何が子どもの成長の枷になるかを知ることにある。ただし、知るだけではダメで、実践しなければならない。そうした覚悟がいるが、親としての覚悟と思えばよい。
「親とはこうあるべき」。これは子どもに対するすべての責任を負うという責任者としての覚悟である。「教育」とは無力に生まれた人間を強くしていくことだともいえる。脆弱な人間が、強く、逞しく育っていくことを教育といい、親がそれを担うことになる。弱い親にそのような大それたことが担えるのか?せめて親は知識だけでも、強者でいる必要がある。