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つくづく思うは親の難しさ ④

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「つくづく思うは親の難しさ」という標題で書いている。子育てはとっくに終わっている身だが、終わっても思考するほど子育ては重要だからやりがいもある。教育とは読んで字のごとき、「教え育む」で、強制的に行う躾に比べて自由度がある。学校教育、家庭教育、社会教育など、教育は分野ごとに割り当てられる内容も違い、それぞれが担う教育が存在する。

学校には給食があるが、家庭における、「寝食を共にする」ほどの密度はなく、個人教育というより、カリキュラムに沿った全体教育が主体となる。したがって学校教育は、親の意とは合致しないこともあるが、それが不満なら躾的な部分は学校に委ねず、家庭において親主導でやればいい。いじめは学校で発生するが、いじめ抑止の根源的な躾は家庭にあると思っている。

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集団生活のただ中で、集団生活のハウトゥを教えるのではなく、集団生活に伴う心構えや、個人のあり方や問題点を家庭内で、取り出して親子で話し合う素地が必要であろう。それらが様々な問題点を含んでおることが大事であり、大切である。つまり、「学校とは何か?」が土台になる。いじめは教育の問題といわれているが、自分は学校という特殊社会の問題と思っている。

したがって、「学校とは何か?」という本質的問題を思考していかなければ、学校で起こるいじめや理不尽な校則の問題の解決は難しい。子どもの集団はかつてのように、地域社会において個別・個々の集団は少なくなり、野球やサッカーチームのように組織だったものが増えた。かつてのような地域の広場に子どもの集団は見られなくなったのは、以下の要因が考えられる。

①子どもの絶対数が少ない、②中流意識家庭の増加による塾通い、③テレビやスマホなど室内娯楽がメインなどの理由が考えられるが、学校のクラス数は減っても、学校が子どもの集団の場である事には変わりない。そこではテレビやゲームの時間もなければ、スマホの持ち込みも禁止されている。となると、学校と家庭とで子どもの生活ギャップはあまりの違いがある。

近所の学校の休憩時間に校庭で飛んだり跳ねたり走りまわったり、追いかけたり逃げたりは小学校で、中学になると校庭で活発に飛び回る生徒は少ない。これは遊び祖質が変わるからだろう。このように、同じ子どもの集団を要する学校といえども、小中高の違いは顕著だ。小学生でもいじめはあるが、それほど根が深くはなく、一晩寝て起きれば消えるような他愛のないもの。

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それが中学になると、憎悪や怨みが根深くなってくる。人間の精神的な成長が澱んだ心を育んでいく。こ人間の心が汚れていくのは仕方のないことだ。人間が乳幼児のままの原初的な脳のままで生きていくなら、それは植物人間に近い。肉体も精神も成長をし、脳でやり取りされる思考も複雑化していく。そこで子どもはどのように成長していくかが、人間形成医学である。

人間形成医学とは、人間を考え、人間を理論医学的に科学し、さらには育児学、発達心理学、児童心理学、親学、人間崩壊学、文明病学にまで及び、従来では不明とされていた分野にまで科学の触手は伸びてきた。子どもの発達過程でもっとも岐路と考えられるのが、子どもが大人の仲間入りをする、10歳~15歳の時期であり、このトレーニングの時期を思春期という。

しかし、人間形成に歪があったり、人間形成が未熟なままでこの年齢層に達する子も当然にしているわけで、それが大人の仲間入りでの障害となる。友達集団に対する適応障害が表面化するなど、それぞれ個々にいろいろな問題が現れる。もし子どもが10歳のなって問題が現れ、親が初めてそのことに気づいたとしても、親には間違った育児の歴史が10年あったことになる。

その親に育てられた子どもの10年に及ぶ人間形成の歪の歴史を、親の努力で修正するのは至難であろう。余程親が問題意識をもって、誤りの修正に取り掛かれば可能ではないが、そこに障害として立ちふさがるのが、「慣習」という奴だ。慣習は厄介であり、不合理である。例えば祖父母から親、親から子へと差別的な慣習がある場合、それぞれに内面化され、それが性格となる。

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などと書きながらふと立ち止まって考えるに、親が子どもを可愛い可愛いだけで育てることに大きな危惧があるかが想像できる。あるいは、我が子憎しと子どもに対する虐待も、一人の人間の成長過程において、親は非常に罪深いことを行っている。発達心理学では、「三歳までに人間の基礎ができる」とされるが、これは『三つ子の魂百まで』という諺にもある。

科学の無い時代にあっても、人間は人間のことを体験的、伝承的に学んでいた。「人間の基礎」とは何であるのか?【いじめは教育の問題?】という表題でそういう記事を書いたが、思考を広げるうちに、人間の土台となる発達心理学に入り込んでしまったが、これらは避けて通れない問題であろう。人間の基礎とは、「愛」ではないかと思う。愛はまた、「やさしさ」といえなくもない。

他方、「厳しさ」という愛もあるが、「厳しさ」の愛の根源は、「やさしさ」である。「やさしさ」と、「甘さ」は違い、やさしさとは決して甘やかせることではない。「人間とは何か」を思考する際、ふと浮かんだ武者小路実篤が好んで色紙に描いた、「天に星、地に花、人に愛」という語句がある。今さらながらどういう意味かを考えてみた。出典元があって実篤のオリジナルではない。

明治時代の文芸評論家高山樗牛(1871年 - 1902年)は、「天にありては星。地にありては花。人にありては愛。これ世に美しきものの最たらずや」とある。これが出典かと思いきや、「天には星、地には花、人には愛が不可欠である」と、高山の120年前にゲーテ(1749年 - 1832年)が述べている。薬師丸ひろ子には、「天に星、地に花」というタイトルの楽曲がある。

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詞は松本隆になり、「君に愛を」と変えている。自分なりに考えた意味は、自然に美しい造詣があるように、人への愛は人間の摂理であろう。愛を美しいと思わぬ人間はいない。先ずはこれが人間性の基本であり、愛を美しいと思うからこそ、供与したという心も育まれる。これを親から供与され、育まれなかった子どもは不幸である。人をいじめるような子は哀しい存在だ。

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