子育て初体験の若い母親は、育児書を読み、そこに書いてあることを鵜呑みにして実践するが、それでうまくいくほど子どもは単純ではない。さまざまな子育て論を目にするなかで、「子どもは褒めて育てよ」、「飴と鞭を使いわけよう」などは定番だが、大切なのは親子の信頼関係が確立していることが大前提。それなくしていかなる教育論も絵に描いた餅となる。
「子どもは褒めて育てた方がいい」は間違いではないが、実際親が褒めてばかりいると、子どもはその期待に応えようとウソをつくようにもなる。こうしたマイナスの要素も頭に入れておかねばならない。その上で子どもの動向を観察しながら、加減をしていくことだ。バカ一つ覚えじゃあるまいし、何事においても、「こうすれば絶対」などの言葉はないのだから…
子育ての考え方もかつての様に単純ではなくなった。「褒めて育てよ」が疑われる背景にはどのようなことがあるのだろうか。褒められることを嫌がる子はいない。子どもに限らず大人でさえ、褒めれて悪い気はしない。豚ですら褒め上げれば木にも登るというのは比喩であろうが、褒められていっそうやる気を出すことはある。では、「褒める」のどこが問題なのか?
「褒める」という行為は上下関係を作っている。親が子どもを褒めると同じことを、子どもが親を褒めない。上司が部下を褒めるように部下は上司を褒められない。などをみても、「褒める」というのは上の人間が下の人間にかける言葉で、決して対等ではない。欧米女性が見え透いた誉め言葉を嫌うのは、男が女を見下げて弄んでいると解釈するからだろう。
確かに男にはそういう驕りがある。だから、褒めた女性の愛想が悪いと、「何だあの女!せっかく褒めてやっているのに可愛くない」などという。明晰な女性はこんな程度の男に媚びたりはしないものだ。もう一つ「褒める」を分析するなら、母親の価値基準を子どもに押し付けていることになる。ここに気づく子どもは物事が見えている利発な子どもであろう。
世間を生きていると、「何でそんなことを褒められるのか?」ということにしばしば遭遇することがあるが、それはつまり相手と自分の価値観が違うということなのだろう。最近、将棋の藤井聡太くんを見ていてそれを強く感じる。周りは彼を誉めまくる。将棋を知らない人、少しばかり知っている人たちの誉め言葉に彼が素直に喜べない様子が伝わってくる。
が、それに対して儀礼で返すも、本心はうっとうしいだろう。羽生さんやA級棋士に褒められるのとは別次元の誉め言葉である。子どもを褒める親には邪悪な狙いが含まれていることもある。男が女を下心剥き出しに褒めるようにだ。自分に感心したからと誉め言葉を多用する女性に言ったことがある。「褒めるのはいいから、一緒に楽しもう。その方がいいんじゃないか?」
親が子どもを褒めるに際し、頭のいい子なら見え透いた誉め言葉は止めた方がいい。上手な誉め言葉なんか考えることもない。母親は自然に子どもと一緒に楽しく遊べばそれでいい。他人の意見はどうだろう。『褒める教育、叱る教育が子供をダメにする』と題した記述がネットにある。「そもそも褒める行為や叱る行為というのは、教育ですらないと考えている。
良いことをすれば褒める、悪いことをすれば叱るという賞罰教育こそが人間をダメにする元凶と考えている。なぜ人間をダメにするのか?子どもは褒められると嬉しくなるし、やる気も出すし、上手く褒めてあげれば伸びていくだろう。それ自体は何ら悪いことではないが、単に褒めるだけだと、そのうち子どもは褒められることを目的とするようになる。
良いことをするのではなく、"どうすれば褒められるのか?"という方法ばかりを考えるようになる。するとどうなるか?褒める人がいれば頑張る、褒める人がいなければ頑張らない。つまり、行動の基準が、"人として良いか悪いか" ではなく、"褒めてもらえるかどうか"になる。他人に親切にすることが良いと分かってても、褒めてくれる相手がいなければやらない。
掃除をしなければいけないと分かってても、褒めてくれる人や評価してくれる人がいなければやらない。結果、他人の目ばかりを気にし、他人の評価や言葉に振り回される人生を送ることになる。"叱る"も"褒める"と同じく、叱られないことを目的とするようになる。その行動が、"人として良いか悪いか"でなく、いかに叱られないようにするかを考えるようになる。
その結果、その場に叱る人間がいれば大人しくし、叱る人間がいなければやりたい放題やるようになる。そんな裏表のある人間になってしまうのです」。確かにその通りだろう。一時期インセンティブを取り入れる企業が多かったが、最近になってインセンティブ制度を止める企業もでている。理由は、社員のモチベーションが下がっていることが問題となったからだ。
人間というのは現金なもので、インセンティブに関係ない仕事は消極的に、あるいは適当になる。さらには、インセンティブ制度の採用された職場で同僚は全てライバル。同僚が何か困っていたとしても、積極的に助けようとする人間は表れず、職場の雰囲気は悪くなるということも現実だ。 信賞必罰にはこういうデメリットもあり、「和」重視の日本人には向かないのだろう。
「子どもは褒めればいい」という神話が改定されれば、親は何を信じ、何を規範に子育てをすればいいのだろうか?子育てにはテキストがないというのを知識としっていても、ならばどうするという問題にぶつかり頭を悩ませる。「子どもに無謀な期待を抱かない、彼には彼の人生がある」と思いながらも、親は「幸福」の価値観を社会での成功者と見まがうことになる。
親たちは、子供を世界で通用するエリートに育てるため、日々、努力を重ねている。しかし、母親になり始めのころは子育ての仕方がわからず、周りの助言に恵まれないケースも少なくないが、勉強できる子にすることだけは信じて疑わない。反面、「勉強さえできれば幸せになる」という価値観を信じない親は、当然ながら子どもに勉強を無理強いすることはしない。
どちらも子を持つ親による教育の選択である。どちらがいいと他人がいうよりも、我が子に自分はどういう選択をし、そのことによる親としての責任を取るだけだが、そうはいっても責任の取りようがない。であるなら、運命共同体としての親子にとって、「教育を失敗した」という親の悔いだけが残る。どういう親の元に生れるのは選びようがない子に罪はない。